連合国陸軍第202分隊本部官舎 六月二十六日 午後15:25 この巨大な基地にある訊問室に20代後半から30代前半と思しき女性と、それを取り囲む軍服の男たちがいた。 女は取り立てて美女というほどでもないが、白人特有の大胆で均整の取れたプロポーションと透き通るような白い肌に金の髪、それに僅かに翠がかった青い瞳が、この清潔ながらもどことなく陰惨な雰囲気をもつ訊問室にそぐわぬ華やかさを添えていた。 質素なプリズナーウェアを着せられ両腕を前に手錠で拘束された女性を取り囲むのはもちろん国軍兵士達だ、ただ彼らの所属は「特殊部隊」通称イレギュラーズと呼ばれる非公式部隊に属する。 非公式ということは即ち、公には出来ない「拷問」や「暗殺」、時に「人体実験」などといった非人道的な汚れ仕事に従事する者達であるということだ。 イレギュラーズは実働部隊、参謀、技術開発部門、などがありそれでも属する人数は60名を越す。 ここにいるのはその中の「実働部隊」のメンバーだ。 室内だというのに遮光ゴーグルに口元を覆うマスク、迷彩のマントに身を包んだその素顔の全く窺い知れない独特のスタイルがトレードマークのジーメンス大尉がこの中で指揮権を握っている。 その隣にいるのがジーメンスの一番弟子との呼び声が高い「遼那(リャオスン)少尉」だ、彼はまだ25歳と歳若いが実働部隊の中でも最も接近戦に強く、その小柄な体とその名に相応しい隼のような素早い動きを生かし、主に要人の暗殺などに暗躍するイレギュラーズにとって欠かせない存在である。 時にその体格を生かし、女性に変装して任務を遂行することがあるため、敵軍の間では「舞姫(テレプシコーラ)」の通称で知られている、滅法強い「女性戦士」の噂はいろいろと尾ひれが付いて、今やその「舞姫」は向こうではその名を知らぬ者はいない有名人となっていた。 だがそんなことは遼那本人のあずかり知るところではないらしい。 ジーメンスがやや乱暴にうな垂れた女の前髪を掴み仰向かせた。 女の体がビクンと震え、その口からやっと搾り出すような苦渋に満ちた声が漏れる。 「…し…知っていることは、これで全部です、本当に全てお話しました…だから…もう…」 一見、女の体には拷問などを受けた様子は無い、だがこの怯え具合からするとこの数日間に肉体に傷つける方法以外でかなり苦しめられたのかもしれない。 「まだだ、お前にはまだやってもらうことがある」 ジーメンスが低く威圧的な声で女の哀願を遮る。 この女は三日前にナバロ自治領に潜伏する巨大ゲリラ組織殲滅作戦で捕らえた幹部の一人だった、このゲリラ組織には連合国軍もずいぶんとてこずらされた、 まず厄介なのはこの組織を指揮するリーダーである。 本名は知られておらず、通称「猛虎」と呼ばれていたがその素顔すらも知る人間はほとんどいないのだ。 だから少なからずその素顔を知るはずのこの女を生きて捕らえられたのは僥倖だった。 「これからお前には首実検に付き合ってもらう」 先日の掃討作戦でリーダーの「猛虎」と思しき男を殺害したが、いかんせん、顔を知る人物があまりに少ないというのは先に述べた通りだ。 ジーメンスがそう言うと控えていた兵士達が女の腰に付けられた拘束ベルトを掴んで引きずるようにして引っ立て無理矢理歩かせる。 訊問室から出て遺体の安置された実験場に女を連行する途中だった、 「あー!遼那いたいたー!」 突然軍事施設の雰囲気に全くそぐわぬ明るい少女の声が響いた。 細い廊下の向こうから弾むような軽い足取りでやって来た明るい声の主は校章らしいエンブレムの入った紺のブレザーに臙脂のリボンタイ、ギンガムチェックのボックススカートと紺のハイソックス、どうみても生粋の女子高生であった。 額を出した長い黒髪にやや丸顔の少女は明るい笑顔がとても魅力的だった。 「あれー?梓さん、こんにちはー」 それを見た遼那が同じような軽い調子で返事をし返す。 この様な場所に女子高生が堂々と出入りしている光景は全く以って奇妙なものだが彼女はこの基地では有名人なので新兵でもない限り、今更彼女の存在にいちいち目を留めるものはいない。 彼女の名前は「二ノ宮 梓」。 国立陸軍士官学校高等科に通う正真正銘の17歳の女子高生だ。 ついでに言うと自称「遼那の彼女」らしい。 遼那の方がどう思っているかはいまいち不明だが。 この梓は国連陸軍二ノ宮中将の御令嬢で小等部から続く名門アカデミー卒業後はすぐにでも士官になることを約束された人材だ。 しかしこの訊問室や実験室などのあるエリアのセキュリティーレベルは最高のL4である、そこにまだ正式な軍人でもないのにこうして自由に出入りできるのだから親の権力の大きさが窺い知れる。 「…ここへはあまり来るなと言っただろう…、今日は何しに来た」 ジーメンス大尉が明らかに彼女を厭う口調で尋ねた、もちろんその表情を窺い知ることは出来ないが恐らくそのマスクの下では無遠慮に顔をしかめていることだろう。 彼はこの奔放すぎる若い娘がいささか苦手であった。 「やーねー、そんな言い方しないでよ、今日は土曜日で学校が午前中までだったから遊びに来たの」 「ここはお前の遊び場ではないぞ、学生は帰って勉強でもしてろ」 ジーメンスの声が一段と不機嫌さを増すが当の梓は気がついてすらいないようだ。 「勉強なんて夜寝る前にチョチョッとやるからいーもん、それより遼那今ヒマ?遊ぼうよー」 一体この少女には上官とともに捕虜らしい人物を連行している彼がどうやったらヒマに見えるというのか。 「うーん、梓さんあのね、一応僕たちこれからまだ任務があってですね…」 遼那が言いよどんだ言葉を聞き終わらないうちに梓の興味は彼らに捕らわれている女に移ったようだ。 女は突然のこの場に全く相応しくない訪問者にあっけに取られているようである。 女と梓の視線が一瞬かち合う。 「ね?この人マルタ?」 次に遼那に視線を向けた梓が尋ねた。 「ええ、まあ、そうですけど…」 その答を聞くなり、次に梓が出た行動は誰も予想が出来なかった。 「いいな!こういう色の瞳!」 梓は突然磊落に声を張り上げるなりその人差し指をヒョイと上げ、無造作に捕虜の女の右目に突き刺した。 「ヒッ…ギャアア!!」 いきなり目に走った激痛に女が大きく仰け反って床にへたり込みそうになる、だがこれには彼女を拘束していた兵士達も驚きはしたものの、瞬時にどうする訳にも行かず慌てて拘束ベルトを引っ張り上げて激しく身悶える女を押さえるのみに留まる。 それが梓の行動を助けることになった。 女が動ける範囲で激しく身を捩じらせてもしぶとくその指を女の眼孔に突き刺したままだった梓が更に指をかき回すように動かす。 「ぎゃあ!!い、痛いぃぃやめてええ!!」 女の血を吐くような叫びなど端から聞こえてさえいないように、相変わらず何の悪意も罪の意識もなにも無い無邪気な表情のままでついに女の眼孔からその眼球を穿り出してしまった。 繋がった血管や神経などを無造作に引き千切るとまた女から「イヒィイイッ!!」と悲痛な悲鳴が上がった。 「ちょちょちょっと梓さんってば!」 これにはさすがの遼那も慌てて止めようとしたが既に女の眼球は梓の手の中に納まってしまった。 「いいなぁ、あたし、こういう色の目に生まれたかったのよねー、東洋人ってつまんない」 血にまみれさせた手でその眼球をいじりながら可愛らしい唇を尖らせて少女が言う。 ジーメンスがこの少女を厭う理由はこういうところにある。 全く罪の意識もなくただ気のおもむくまま欲望のおもむくままに残酷なことを平気でやってのけるこの神経が良識人で知られる彼にはどうにも受け付けられないのだろう。 「梓さーん…、困りますよ、これからこの人に首実検してもらわなきゃいけないんですから…」 「あ、そうなの?それなら早く言ってよね」 早く言うも何も、一体誰にこの少女がなんの宣言も無くいきなり捕虜の目玉を穿り出すことなど予想できただろうか。 捕虜の女は兵士達に支えられてようやく立っているのが精一杯のようで体を震わせながら片目を失った痛みにすすり泣いていた。 「まあ、片目があればなんとかなりますけどねえ…」 恐らく内心頭を抱えているであろうジーメンスの手前なんなりとフォローする遼那だった。 女は簡単な手当てを受けてから、首実検に立ち会わされた。 もちろん、当然のように梓も着いてきたがジーメンスは彼女に対して文句をいう気力も失せたのか好きにさせていた。 「…は…はい…間違いありません…彼です…」 検死台の上に安置された男の死体は頭の1/3が欠け、こぼれた脳や眼球が土にまみれて変色し、悲惨な様相をさらしていた。 かぶせられた白い布はこのときには肩の辺りまでしか捲られていなかったが胴体部も銃創だらけの酷い有様だった。 女は信頼するリーダーだった男の変わり果てた姿を見せられたことと怪我の痛みのショックで顔色を蒼白にして震える声でなんとかそれだけ言葉にした。 「よし、師団長に報告しろ、『猛虎』を殺害したとな」 ジーメンスが部下の一人に伝令を伝える、命令を受けた部下の男は無言で敬礼をすると素早く部屋を出て行った。 「さて、これでお前は用済みだ、だが素直に協力してくれた恩赦として…」 そうジーメンスが言い終わらないうちに梓が女の前に回りこんだ。 「じゃあ、もうこっちの目もいらないよね、あたしがもらっちゃおー」 そう言って残った片方の目に伸びてくる手と少女の明るい笑顔、それが女が人生で見た最後の光景となった。 「ぎゃあああああっ!!ヒギイイイイイイイイィッ!うああああっ!!!!」 両目を抉られ、床に倒れこんで痛みにのたうち泣叫ぶ女を見やりながら、今度こそジーメンスは深いため息をついて額に手を当ててうな垂れた。 「全くこの娘は…」 その後ろで遼那も全く同じポーズでため息をついていた。 両目を失った捕虜の女はそのまま医務局に運ばれていった。 そのあと、梓の傍若無人を持て余したジーメンスが遼那に今日の任務終了を告げた。 もちろん梓の厄介払いを兼ねて彼女を遼那に押し付ける心算だったのは言うまでも無い。 いかに梓が二ノ宮中将の一粒種の愛娘とはいえ立場的にはジーメンスの権限で無理矢理追い出せないことは無かったし、そのことで中将から睨まれることなど彼は怖れたりはしなかったが「この娘には何を言ってもムダだ」という彼にしては珍しく意気地のない決定的な諦めがあるのでとにかく彼女から遠ざかることを第一と考えたようである。 梓は化学実験室から貰ってきたアルコール入りの瓶に漬けられた例の女の両目を眺めては御満悦だった様子だが、しばらく基地内を遼那とともに遊び歩いているうちにすっかり興味を失ったのか、最終的にはどこかに置き忘れるという有様であった。 それに気が付いた梓の口から出たのは、 「ま、いっか」 の一言だけであった。 どこに置き忘れてきたのかは不明だがそれを見つけたほかの者がどう思うか多少不安なところではある。 しかし遼那も基本的に彼女と似たような性格なので同じく「ま、いいでしょ」で済ませてしまったのは言うまでもない。 「…あたし、ダイエット中なのよね…」 梓の恨めしそうな低い声と妬ましそうな視線を受けながら、遼那はトレーに山盛りの夕食をがっついていた。 「…あたし、ダイエット中なのよね…」 再び同じセリフを繰り返す梓の前にはサラダのみが置かれていた。 しかし遼那は一向に怯む様子もなく、いつもと同じ量の食事をかっ込んでいる。 「いいわよねー、遼那はさー…そんなに食べても全然太らないし…」 一層恨み節の効いた声で梓が遼那を睨みつける。 「だって、僕は食べた分のカロリーは消費してますもん」 「あたしだって学校で運動したり格闘技習ったりしてるもん…」 「なら食べた方が良いですよ、食べないと体動きませんからね」 「運動してても太るのー!!」 「運動量が足りないんですよ」 「やー!これ以上運動して足太くなったりするのやだもん!!」 不毛なやり取りが基地内の食堂に響く。 この少女と遼那の存在が基地内では有名であるとはいえやはり好奇の、あるいはいぶかしげな視線を向けるものも多い。 本人たちが全く気に止めていないのが幸いなのか、はたまたそれが迷惑なのか。 「大丈夫ですよぉ、女性は二十歳くらいが一番痩せやすいんです、梓さん今はまだ成長期なんだから食べておいた方が絶対いいですってば」 遼那になだめられてようやく恨めしげな視線をやめた梓は「その言葉、信じるからね」と言い残してやっと念願だったらしいデザートを取りに行った。 「ね、遼那、今日は遼那の部屋に泊まって行っていいでしょ?」 デザートの杏仁豆腐を食べ終えて食欲を満たした少女が今度は性欲も満たそうというのか、遼那に悪戯っぽく話しかける。 「そりゃ構いませんけど…でもいいんですか?外泊したらご両親が心配なさるんじゃないですか?」 「大丈夫よ、お友達の家で勉強するって言ってあるもん。ね?」 テーブルの上にほとんど身を乗り上げるようにして遼那に顔を近づけて小悪魔的に笑う。 これほど人生を何の苦もなく楽しんでいる少女も、そうはいないかもしれない。 「わかりましたけど、とりあえず、これ、全部食べてからでいいですか?」 強引な少女の誘いに、多少押され気味な遼那が苦笑しながら控えめに訴えた。 「またあの娘が来てたのか…まったく…中将もいくら子煩悩とはいえ甘すぎるんじゃないのか?」 夜の帳が降りた官舎の一室で、浮島少佐が指先を額に軽く当てまだ幼い身体に見合わぬ仕草でため息を付いた。 浮島少佐は浮島大将の一人息子である。 実際、彼の年齢はまだ12歳という幼さだ、それが非公式とはいえこの身分を与えられイレギュラーズの指揮官などをやっている理由は、彼が僅か11歳で士官学校を飛び級で卒業した天才児であったこともあるだろうが、それ以上に彼の父親の権限が大きい所為もある。 そういう点では、浮島 悠一少佐も二ノ宮 梓も親の栄光にぶら下がっているのだからあまり変わりはないとも言えるが。 ただやはりまだ彼が子供な所為か、父親の浮島大将は彼が実際に直接任務に関わることだけは絶対に認めていなかった。 「お前らしくないじゃないか、ジーメンス大尉、なんだってあの娘の暴挙をだまって見ているんだ」 浮島少佐も彼女はいささか苦手らしく、その始末をジーメンスに押し付けたい気持ちがある。 「あの娘に何を言っても無駄なのは少佐も御存知でしょう?」 彼には珍しく、ジーメンスが苦笑気味に答える。 「だからといってなあ…今日はマルタを勝手に潰したそうじゃないか、部外者にそんな勝手なマネをさせて報告書になんと書くつもりだ?まったく、遼那少尉といい如月准尉といいあの娘といい、いくら非公式部隊とはいえここに集まるのはどうにもおかしな連中が多すぎるんじゃないか?いくら僕でも面倒見切れんぞ?」 半ば捨て鉢な調子で言い捨てる浮島少佐だったが、実際、彼らを動かすのはジーメンスの役目だ、部下の選抜も作戦の遂行も彼抜きでは成り立たない、浮島少佐は所詮名目ばかりの部隊長だ。 本人にもそれは分っているのだが、彼のそうした曖昧な立場か父の擁護あっての取立てか、そうしたものが彼の癪に障るのかどうしても多少愚痴っぽくなってしまうらしい。 本人が一番嫌う、子ども扱いされるのがこうした未熟な感情の所為だと判っていても。 「少佐、遼那や如月については判るところはあります、…遼那は元々山岳ゲリラから救出された少年兵の一人でした、保護された時の遼那は栄養状態が極端に悪く、まともな言葉すら話せず、自分の本当の名前さえ思い出せず、正確な年齢も知らず…野生の狼そのものでした、遼那の名前は私が与えたものです。如月准尉とても5年前に捕虜になり拷問で舌を切られて以来、己の感情を何一つ示そうとはしません、舌がなくとも筆談なり食道発声法なり自分の意志を主張したいなら方法はいくらでもあるはずです、それを全くしなくなったのならもう言いたいことなど何もないからでしょう。彼らが背負っているものの大きさを考えれば多少の異常性は私には理解出来ます。ですが私は正直、梓のような娘の方こそが恐ろしいのです」 「…恐ろしい?」 浮島少佐が怪訝に聞き返す。 「ええ、理解が及ばないからです。彼女は我々のように血なまぐさい環境で育ってきたわけではありません、むしろ真逆でしょう、裕福な両親の庇護の下、大切に育てられてきて何故あのように残酷になれるのでしょうか、生まれつきですか?私にはそれが理解が出来ません、だから怖いのです」 「ふ…む…」 ジーメンスの言葉の意味は判っても今ひとつピンとこないのか、浮島少佐が首を捻る。 「そして同時に気の毒なことだとも思います。…私には妻と子供がいます、私は彼女らにはこんな世界を知らずに生きていって欲しいと心から願っています、闇を知らず、光の溢れる平和な世界で生きてもらいたいのです。…少佐、どうか彼らを哀れんでやってください、私は家族に平和な世界の暖かさの片鱗を教えてもらっています、ですが彼らはその暖かい世界から既に永久に追放されたのです。いずれ、あの梓も軍人になるでしょう、そしてやがては実戦であの残酷さを遺憾なく発揮するのでしょう、そうして平和な暖かい世界から追放されたとも気が付かず、いずれは私も遼那も皆も闘いの中で死んでゆくのです、そして地獄に落ちるのです」 ジーメンス大尉は彼にしては珍しく饒舌になっていた。 「…地獄、か、お前は神を信じているのか?」 「かつては信じていました、今は分りません、ですが我々は地獄へ落ちるべき人間です。少佐、貴方はまだ本当の闇を覗いていません、出来る事なら、私も少佐のお父上と同様に、実際に手を血で染める事無く多くのエリートコースを歩む上級将校達のように報告書の上でだけの戦争を見ていて頂きたいと思っています」 ジーメンスの言葉に一瞬目を見張った浮島だったが、今度は不貞腐れた顔をして小さな身体を大きな皮椅子に不満げに沈めた。 「…なんだよそれ、お前まで僕に紙の上の戦争しか知らない馬鹿の仲間入りしろってのかよ?」 「馬鹿になれとは言っていません、むしろ貴方なら誰より賢しくなれるでしょう、ですが一旦闇の世界に足を踏み入れてしまえば二度とは戻れません、あとは死ぬまで闘い続けるだけの運命です」 ジーメンスの表情は遮光ゴーグルとマスクの所為で全く窺い知ることができない。 だがその態度や言葉はあくまで真摯だった。 浮島少佐は僅かにまつ毛を伏せた、そう、知っている、彼らの生きる世界の残酷さを、その深さを、だが自分はそれを実際に目にしていない、このまま父やジーメンスの望み通り生きていくならば一生縁のない世界となるだろう、だがそれはとても卑怯な生き方な気がするのだ。 自分だけが安全な場所に置かれて、部下である彼らが死に行くのを黙ってみているなどとあまりにもそれでは自分が情けない。 「…だけど僕も、お前たちのいる闇の世界を見てみたいんだ」 浮島が年齢相応の表情で頼りなさげに呟いた。 「卑怯者にはなりたくない…」 そう言って顔を伏せた浮島の方をそっとジーメンスの大きな右手が包む。 「卑怯者ではありません、少佐。」 部下でありながら、時に父親のような暖かさを持つこのジーメンスを浮島は嫌いでは決してなかった。むしろ誰より信頼していた。 浮島がジーメンスの左腕に手を伸ばした。 そしてその手を自らのまだ幼い小さな手で包んだ、知っている、この手袋の中に、本物の指は一本もない、彼の左半身は昔、敵軍に掴まり見せしめに焼かれた、ゆえにこうして醜くなったその姿を覆い隠すように常にゴーグルとマスクをしているのだ、彼もまた闇を背負っている。 「…哀れんでやれ、か…」 彼らの心の闇の僅かに垣間見える片鱗だけを見つめながら、いまだこちらの世界にいる浮島は何を思うのか。 ただ、何かを見つけ出そうとするように、しばらくジーメンスの傷付いた左腕に触れていた。 |