《 食 》


「僕を、殺して下さい」

 日没が迫っていた。足下に落ちる影が、不気味に長く伸びてゆく中、自らも影になってしまったかのような男は言った。



 その日、その場所で、男――佐藤を見つけたのは偶然だった。
 メシアが警官隊の銃弾に倒れた後、世間の目を逃れ、メシア復活の日のため奔走していた蛙男に、その再会は唐突に訪れた。
 メシアを裏切り、死の原因を作った男。
 一度は会って問いたださなければと探してはいたが、まさかこんな再会をしようとは思わなかった。
 草臥れたスーツ、伸び放題のざんばら髪。項垂れて道端にうずくまった姿は、若くして経済界のトップに登りつめた者として脚光を浴びていた、数ヶ月前とは似ても似つかなかった。
「お前はヤモリビト…、いや、佐藤ではないか」
 呼びかけた蛙男に、佐藤は弾かれたように顔を上げた。血の気のない顔は、さながら幽鬼のようだった。
 変わり果てた姿であるのに、何故そうと分かったのか。自分でも不思議に思いながら、蛙男は佐藤に何があったのかを問うた。
 佐藤はうつむき、訥々と語った。悪魔の甘言に騙され、全てを奪われたことや、悪魔が今では大金持ちにり、ほぼ全ての産業を牛耳っていること等、蛙男には半ば予想のついていた顛末だった。
「悪魔くんの考えていたことが、どんなに素晴らしいものか分かっただろう」
 再び会ったならば、問い詰め罵倒しなければ気が済まないと思っていた。けれど、佐藤の憔悴しきった様子に、蛙男はただ静かに千年王国の理想を説いた。諭すつもりの言葉だが、佐藤には責める言葉にも聞こえるだろう。
「分かったか、分かったらついてこい。不浄に満ちた悪魔の支配する世界を粉砕するために戦うのだ」
 佐藤が後悔の涙を零した所で、佐藤の改心を感じた蛙男は、立ち上がり佐藤を促した。
「……でも」
「心配するな。悪魔くんは必ず蘇る」
 戸惑う様子の佐藤に力強く頷いてやる。
 悪魔くんは、メシアは蘇る。そうすれば、悪魔などの好きにはさせない。使徒を集め、 力を集め、必ずや千年王国を――。


「よみ、がえる……」
 ぽつりと佐藤が呟いた。
 決意を新たに足を踏み出しかけた蛙男は、佐藤の声音の変化に後ろを振り向いた。
 佐藤は立ち上がり、自分の足下を凝っと見つめている。気付けば、辺りは夕陽に赤く染まり、足下の影は黒々と伸びていた。伸びた蛙男の影の中に、佐藤は佇んでいる。表情は見えない。
「……蛙男さん」
 呼ばれた瞬間。
 ぞっ、と。背筋を言いようもない嫌悪が這った。
 嫌だ。しかし、一体何が嫌だ。蛙男は眼前の佐藤を見つめ、自問自答する。
 確かに自分は佐藤に憤っていたが、それも佐藤の後悔を見て取り、許したはずだ。そもそも佐藤に感じていたのは憤りであって、この足下から這い登るような嫌悪ではない。
 そこまで考えて、ふと蛙男は思い出す。これに似た感覚を自分は感じたことがある。
 メシアが撃たれたあの日に。彼の方を送り出すその時に。
 ……そうだ。これは嫌な予感というものだ。
 自分は今から、途方もなく嫌なことを告げられようとしている。
 気付いた時、佐藤が口を開いた。
「肉体無くして、蘇ることは可能なのでしょうか」
「どういう…、意味だ」
 佐藤が口にした言葉の意図が読めず、蛙男は問い返す。その間も、嫌な気分は確実に、蛙男の背に覆い被さってくる。思えば、自分がこの男を佐藤だと気付いたのは、背負った空気の異様さに思わず目を留めたからではなかったか。
「肉体がなければ……、魂の入れ物がなければ、メシアの復活は不可能だ。そう、悪魔に言われたんです」
「悪魔? 何故、悪魔が……、まさか……」
 ひとつの考えが頭を過ぎる。嫌な考えだった。先の言葉を口に出すことが出来ない。この場から逃げてしまいたくなる程、嫌で嫌で仕方がない。
 佐藤は震える声で、蛙男の“嫌な考え”を肯定した。
「メシアの肉体は、骨の一欠片、髪の一本さえ、残っていません」
 一言一言を確かめるように、また自らに言い聞かせるように佐藤は言った。だが、そんな言葉を信じられるだろうか。蛙男は頭を振り、佐藤を見る。
「しかしメシアの御遺体は、松下氏が引き取って埋葬したと……」
「表向きは、そうですね。けれど本当は、警官隊に撃たれたメシアの亡骸を、悪魔は盗み出したんです。メシアを復活させないため、全てを消し去るために。人の目を欺くのが悪魔でしょう」
「ならば、お前こそ欺かれていないと何故言える。お前を混乱させる嘘かも知れないだろう」
 嘘、と佐藤は泣き笑いの表情で蛙男を見た。ゆるりと頭を振る。
「嘘なら、どんなに良いでしょうね。でも、駄目なんですよ、蛙男さん。僕はメシアの亡骸が失われていく様を見ている。ええ、そうです」

 ――メシアの亡骸を僕は食べたのですから。

「なん、だと……」
 予想を超えた佐藤の告白に、蛙男は言葉を無くした。
 狂気を映した笑みを浮かべて、佐藤はゆっくりと醜悪な物語を語った。

 悪魔は奴の下で働くことになった僕に、親切めかして衣食住の世話をしようと申し出ました。大金を手にして浮かれていた僕は、何一つ疑問を持たずにその誘いに乗ったのです。悪魔の用意した豪邸に住み、悪魔の用意した使用人を使い、悪魔の用意した生活に身を置きました。それがどんな恐ろしいことなのか、気付くことは幾らも出来たはずなのに……。
 悪魔は何故か、僕と食卓を共にすることを好みました。腕の良い料理人を見つけた、良い酒が手に入ったと、事あるごとに僕の元を尋ね、食事に誘うのです。気味の悪い程に、楽しげな笑みを浮かべて。
 そうですね。悪魔にとっては、楽しくて滑稽で仕方がなかったのでしょう。出される料理の豪華さや味の良さに目が眩み、その料理の材料が何なのか気付きもしない、そんなどうしようもない馬鹿を目の前にしていたのですから。
 ねえ、蛙男さん。結局僕は、最後の最後まで気付かなかったんですよ。
 会社を追われる前の晩、いつにも増して楽しそうな悪魔が、これが最後の晩餐だと言うまで。
 悪魔から全てを聞かされた時には、メシアは清らかな白い骨と愛らしい頭しか、残っていませんでした。

「その残った骨と頭も、悪魔が食べてしまいました。最初は、僕の前に出てきたんです。大きな真白い皿にのった、メシアの――」
「もういい!!」
 響いた怒鳴り声に、佐藤がびくりと体を震わせ、蛙男を見た。
 その表情を、何と表現すれば良いのだろう。諦めと放棄と喪心と、全てがない交ぜになって、けれどそれが全てではない。
 あえて言葉を選ぶとするなら――絶望、か。
「蛙男さん……」
 名を呼んで、佐藤は糸の切れた操り人形のように、その場にくずおれた。震える指先が地面を掴み、土の上に跡を作る。

「僕を、殺して下さい」

 零れた言葉は懇願だった。

「悪魔から全てを聞かされた時、胃の中のものを全て吐き出しながら、死のう、と、そう思いました」
 血を吐くような様子で、佐藤は言葉を続けた。声も体もがたがたと震えている。
「人を殺し、その死肉を食らった僕が、生きていて良いはずがない。……けれど、そんな僕を見て悪魔は言ったんです」

――可哀想になぁ。もうお前に生きる価値なんぞ無いのに、
  死ぬことも出来なくなったなぁ。
  
「……どういう…ことだ?」
 しばし放心していた蛙男は、ようやく一言、そう尋ねた。喉が渇き、いつも以上に嗄れた声だった。
「メシアは今…、僕の血肉となって、僕の中に在ります。もし今、僕が死を選べば、僕は僕の中のメシアを、再び殺すことになる」
 蛙男にというよりは、自分に言い聞かせるように佐藤は答える。
「キリストを裏切ったユダは、死を持ってその罪を贖いました。けれど、救世主を二度殺す罪は、何を持って贖えば良いのですか。贖罪が僕の新たな罪になるのなら、僕の罪は、僕の贖罪は、――どこまで続くのですか」
 掛ける言葉もなく、蛙男は佐藤を見下ろした。気付けば、地面に長く伸びていた影は、闇の色に溶け込み始めている。
「僕では僕を殺せない。蛙男さん、どうか、僕を――」
 自らの死よりも、背負った罪の重さを恐れる男は、それが唯一の救いであるかのように懇願を続けている。
 しかし、愚かで哀れな男は気付いていない。たとえ男が死んだとして、贖罪には、ましてや救いになどならないということを。
 真に彼を救える救世主は、もう何処にもいない。
 骨の一欠片、髪の一本さえ……。
 永久に罪を背負った男と、永久の罪を聞かされた男を飲み込んで、永久に救い主を失った世界に、静かに闇が落ちた。

〈end.〉