ほんの些細な一言だった。 それに激高した大男がナイフを振りかざし、チェ・イェジン軍曹のテーブルに置かれた手の甲を突き刺した。 周囲にどよめきが走る。 ナイフは完全に彼女の手のひらを貫通し、その切っ先は木製のテーブルに深く食い込んでいた。 これでさすがに脅しても賺しても一向に動じない生意気なこの女も悲鳴を上げるだろうと思い込んでいた大男が品の無い笑みを浮かべ彼女の顔を見た。 だが驚きにその表情が固まってしまったのはイェジンではなく大男の方だった。 イェジンはただ静かに串刺しにされた我が手を見つめていた。 その表情には全く苦痛の色は浮んでいない。 予想に全く反した奇妙な光景に焦りを覚えた男が、ならばこれでどうだ、と言わんばかりに今度はナイフの切っ先を軸にして更に前倒しに押し進め、その傷口を広げた。 さすがに、その一瞬イェジンの上体がピクリと動いた、だがそれだけだった。 やはり彼女は悲鳴はおろか苦痛のうめき声さえ立てず、じっと血の溢れる我が手を静かに眺めていた。 ― こんなものか。 彼女はまたも落胆した。 ― こんなものか。たかがこの程度の痛みか。 イェジンの異様な態度となんとも表現しがたい迫力に気圧され、男が思わずナイフから手を離し、一歩あとじさる。 彼女がその視線を男に移す、これで終り?とでもいいたげな表情で。 次にイェジンが起こした行動はこの大男のみならずそれを見ていた周囲の者達までもを慄かせた。 イェジンは刺されたナイフをもう片方の手で引き抜くことはせず、貫かれたままの手の甲をゆっくりと持ち上げたのだ。 勿論、机に深く食い込んだ切っ先が簡単には抜けることはない。 イェジンの手はその傷を更に鋭利な刃で抉りながら突き立ったナイフの背に沿って上がっていった、まるでそれは奇術のような光景だった、だが実際にはその手からは血があふれ出していたし、生々しい傷口を刃物が滑りながら通っていくその様は見ている者達の身の毛をよだたせた。 やがて手の甲がナイフの柄に当たると、更に彼女は力を込めて手を持ち上げ、傷を広げるのも厭わずに前後に強く揺さぶって深く机に食い込んだナイフを引き抜いてしまった。 そして異様に静まり返った周囲をものともせず、完全に手のひらを貫通したそれをまた至極ゆっくりと、ゆっくりと引き抜いていった。 どこかから「ひっ」と小さな悲鳴が上がる。 やはりその時でさえ、イェジンの顔は無表情のままだった。 この粗暴な男がどれほどの痛みを与えてくれるのかと期待してあえて煽ってみたのだが、この程度でしかなかったか。 彼女は血まみれになったナイフをもう一度机に突き立て男に返すと、そのまま凍りついたような者達を残し、振り返ることもせずに官舎の食堂を出て行った。 彼女の歩いていった後には血が点々とその軌跡を残していた。 医務局で傷の手当てをお願いすると軍医は「またか…」とため息を付いて辟易した表情をしながらも手際よく処置をおこなってくれた。 彼女は非常に厄介な医務局の常連だった。 痛み止めを処方しても彼女が飲むことは無いと分かっていたのであえて出さなかった。 化膿止めだけは飲むように再三念を押したが。 官舎にある自分の部屋へと戻ったイェジンはベッドに腰掛けながら縫合を済ませ包帯を巻かれたばかりの手を見つめていた。 そして試しに指を曲げてみた、勿論そんなことをすれば傷も痛む筈だ、だが彼女にはそんなことは関係なかった。 すこし、中指を動かすのに不自由がある、だが軍医は骨にも神経にも幸い大きな損傷は無いと言っていたし、簡単なリハビリですぐに元に戻るだろう。 イェジンは何度もつい先ほど手当てを済ませたばかりの手のひらを何度も握っては広げ握っては広げとくり返した。 その都度、当たり前のことだがその手は痛みを脳へと伝えてきたし、止まっていた血も再び滲んで包帯を赤く染め始めた。 ― そうだ、こんなつまらないことで私の体が動かなくなる訳には行かない。たとえ指一本であってもだ。 彼女は血の滲む手のひらに無事なもう片方の手の親指を這わせ、ふと、ベッドの横に置かれた写真立に目を移す。 そこには一枚の写真が飾られ、明るい笑顔の二人の少女が写っていた。 その表情には何の不安も無い、明るい未来が待っていることを信じて疑わない強さと希望に満ちた幸せな顔だった。 その写真の中の、右側にいるやや華奢な少女が10年前のチェ・イェジンだ。 そしてその肩を抱いて笑っている左側の美しい少女の名を野副 雅美と言った。 この雅美と言う少女は非常に端麗な顔立ちをしていたが、背が高く、多分にボーイッシュで、どちらかと言えば異性よりも同性に人気のありそうなタイプの少女だった。 このときの二人は共に入隊したての18歳。 二人は出逢ってすぐ親しくなった。 イェジンは雅美の真っ直ぐで明るい性格と、凛々しく精悍な雰囲気さえ漂わせる美しい彼女が大好きだった。 どちらかと言えば当時は引っ込み思案で運動も少々苦手だったイェジンにとって彼女は憧れであり、常に目標であった。 翻って雅美は何でも出来た、辛い訓練も難なくこなしたし、勉学においても優秀そのものだった。 しかしそんな彼女を憧れはすれど妬む者など誰もいなかった。 それは雅美がそれほど秀でた人間であっても奢ったところなど一切感じさせない好人物であったからに他ならない。 実際、彼女のファンは男性陣よりも女性の中に多かったようだ。 それはイェジンも多分にもれず。 苦手な分野では彼女に助けられた事は何度もあったし、太陽の様なその眩しさに何度も憧れはしたが勿論妬みや嫉みなど持ったためしは一度たりとも無い。 かっこよくて、美しくて、何でも出来て、自慢の友、雅美。 いつしか彼女とイェジンは自他共に認める「親友」になっていた。 その要因の一つには、雅美の名前にあった。 「まさみ」という日本人特有の名前は英語を常用語とする同僚たちには発音し辛いことこの上なかった、 だから彼女は普段「マーシャ」という単純な愛称で呼ばれていた。 だがイェジンは違った。 イェジンは12歳になるまで日本で暮らしていた経験があり日本語に精通していた、だから雅美の名前も正確に発音することが出来たのだ。 英語圏で育った朋友たちの多い中、唯一まともに自分の名前を呼んでくれるイェジンに対して雅美は言った、 「愛称で呼ばれるのも親しみがあって嫌いじゃないけど、でもやっぱり名前を正しく発音してくれるのは嬉しい」と。 イェジンにとって雅美は元々一番の親友であったが、それでも自分だけが彼女に対してある種の特権を持てたような気がしてとても誇らしかったのを覚えている。 そんな彼女たちが初めて本格的な戦場に出たのは二人が21歳になった時であった。 それは前線ではなく後方支援部隊であったがここが危険と隣り合わせの戦場であることには違いない、入隊した時から覚悟はしていたつもりだったがやはり完全武装して時折遠くに銃声と爆音の響く戦地に立った時にはイェジンの足は震えが止まらなかった。 そんな彼女を見て取って、その肩を抱きしめて優しい笑顔で「大丈夫」と言ってくれたのは当時曹長に昇進していた野副 雅美だった。 彼女がいてくれたからこそこの恐ろしい状況下でもなんとか耐えられた。 しかし次第に戦況が悪化し、ついには前線を突破されイェジンと雅美のいる市街地にまで戦火が及んだ。 基本的に女性兵士はあくまで後方に控えているのが鉄則だ。 だが何日も続いた市街戦の後、撤退を余儀なくされたイェジンたちの小隊は運悪く敵軍に包囲されてしまった。 敵に囲まれた恐怖にイェジンが反射的にM14を構えようとしたとき、咄嗟にその銃身をつかんで静止したのは雅美だった。 所詮多勢に無勢だ、今ここで銃撃戦になったとしたら私達は確実に死ぬ、捕虜になればまだ生きるチャンスはあるかもしれない。 恐怖に震えるイェジンに彼女はそう目で語りかけた。 そうしてイェジンと雅美は武器を捨て、降伏した。 結局イェジンたちの小隊の中で生き残ったのは彼女たちだけだった。 イェジンと雅美は敵陣のバラックの一角に押し込められ、互いに励ましあいながら先の見えない自分たちの運命になんとか希望を持たせようとしていた。 イェジンにとってこの地獄のような恐怖の中にも救いはあった。 それがこの親友の存在だ。 我々がこれからどんな目に遭わされるのか想像も付かない、敵国内で掴まった捕虜にまっとうな扱いなどしてくれるだろうか? だが、大好きな雅美が共にいるのならきっと私はどんな苦境でも乗り越えられる、雅美は私の希望だ、それはイェジンにとって何にも勝る心の支えであった、今、彼女と共にある事を幸運にさえ思えるほどだ。 もし、敵兵が私たちを嬲り殺しにすると言うなら、私は雅美の身代わりになろう、そして雅美だけは無事に帰してくれるよう説得しよう。 たとえ可能性の低い甘い考えだとしても、それが失敗に終わったとしても雅美と共に死ねるならそれも悪くはない。 私達はいつも一緒なのだから、と、イェジンは思っていた。 彼女達が捕虜になって一日目の夜が明けた。 翌朝、簡素な食事が届けられた後、独房に数人の憲兵が現れた。 イェジンは身を硬くして雅美にしがみついた、彼女は願っていた、どうか、雅美から引き離されたりしませんようにと。 憲兵は事務的に告げた、「どちらか片方でいい、訊問室へ」その言葉にイェジンの手を振り解くようにして雅美が咄嗟に立ち上がった、 「私は野副雅美、階級は曹長、彼女の上官だ、私が応じる」 雅美の言葉にイェジンが目を見開いた、 「何を言うの雅美!私も一緒に…」 「彼らは一人でいいと言った、命令よ、従いなさい!チェ・イェジン一等兵!」 雅美の声は迫力も覚悟も数段イェジンに勝っていた、事実彼女は上官だ、命令と言われてはイェジンにはどうしようもない、だがそれでもイェジンは引き離されるのが怖かった、どうしようもなく恐ろしかった。 いやいやをするように雅美の手を掴んで涙目で「行かないで」と訴えた。 雅美はそんな彼女を安心させようと笑って彼女の瞳を覗きこんだ。 「大丈夫、私たちは正式な捕虜よ、虐待されたりしない、約束する、何があってもせめて貴女だけは無事帰還させてくれるよう頼んでみるから」 雅美はイェジンを安心させるつもりだったかもしれないがイェジンにとって最後の言葉は完全に逆効果だった。 違う、私は死ぬのが怖いんじゃない、貴女を守れないことが恐ろしいだけ…。 なおも激しくかぶりを振りながらイェジンも食い下がった。 「だめよ!だめ!!一緒に帰ろう、ね、一緒にいようよ、お願い私も連れて行って!!一人にしないで!!雅美!」 「イェジン…大丈夫だから…ただの聴取だから…」 雅美が優しく言い聞かそうとしても最早ムダだった。 「だめ!!だめだめ!!絶対だめ!!雅美を連れて行かないで!!!」 もはやイェジンのそれは駄々っ子と大差なかった、何か不吉な予感をこのとき既に覚えていたのかもしれない、人一倍感受性の強いイェジンだから、もしかしたら雅美の生きている姿を見るのはこれが最後ではないかと、そんな予感を感じ取っていたのかもしれない。 その時、独房内に入り込んできた憲兵の一人が銃底ですがり付くイェジンの胸を強く打った。 「あぐっ!」 強い衝撃に突き飛ばされ呼吸を詰まらせたイェジンが呻いて壁に背を打ち付ける。 「やめなさい!!私が応じるといっている!!彼女には手を出すな!!!」 雅美が怒号した。 本当は胸を押さえて苦しむ親友の元に駆け寄って介抱したかったがそんなことをすればなお一層イェジンは離れがたくなるだろう。 そう判断した雅美は苦しい呼吸に喘いでいる友人を振り返る事無く憲兵たちの手に我が身を委ねた。 「まさみ…」 イェジンの涙交じりの嗚咽が聞こえる。 それでも雅美は振り返らなかった、 憲兵たちが独房の格子を締めて初めて彼女を振り見た。 「絶対大丈夫、イェジン、いい子ね」 そう言って優しく美しい笑顔を彼女に贈った。 事実、それがイェジンが見た野副雅美の生きている最後の姿になった。 訊問室には男がいた。 両腕を後ろに拘束された雅美の正面に座り、彼女の頭からつま先まで舐るように一瞥した。 男の年齢は30代中頃といったところか、黒い髪を後ろに撫で付けた整った顔立ちの男だったがどこかしら爬虫類のような冷たさを感じさせる。 「私はナザルバイエフ=ラウド、階級は大佐だ、この前線基地の指揮官になる、さて君の名前と階級を教えてくれ」 男が朗々と響くバスの声で雅美に告げた。 「私は野副 雅美、階級は曹長」 「もう一人の彼女は?」 「…彼女は私の部下でチェ・イェジン一等兵、言っておくけど彼女は重要な情報は何ももってないわ、その代わり私が何でも答えるから彼女には手を出さないって約束して頂戴」 この状況で敵軍の大佐を目の前にしても動じない、この気丈さを持った女性にいくらか感銘を受けたらしいラウド大佐が感心したように方眉を上げた。 「ふん、よかろう、野副曹長、しかし君とてさしたる重要な情報を握っているとも思えんがな、第一、連合大隊は既に撤退した、君らは既に死んだものとみなされているだろう、我々とて無駄な捕虜を託っている余裕はない、今回の市街戦でずいぶんと一般市民にも犠牲者が出たからな、利用価値のない君たちを解放するのはいいが生き残った市民の前に放り出せばたちまち私刑だろうし、どっちにしても助からんだろうな」 「そうでもないわ」 雅美が恐れる事無く口を挟んだ。 「ほう?」 ラウド大佐の目が興味を引かれたように細められる。 「今回の作戦は確かに失敗だった、それはそもそも我々の指揮官があなた方の兵力を実際より低く見積もっていたからよ、4日の総攻撃の最、あなた方の援軍の規模を完全に見誤っていたんだわ、だから私たちのような後方支援の新兵が無残に取り残されてこうして捕虜になったりしたのよ、大方今回のことでこちら側の指揮官は詰め腹を切らされるでしょうね、それこそ命さえ危ぶまれるほどのね。だからといって南ウ攻略に有利なチョークポイントとなるこの都市をこのままほうっておくはずがない、聞いた話では私たち前線部隊があと2日持ちこたえられたらこちらも援軍が到着するはずだったそうよ」 「ふむ、それは本当かね?どれくらいの規模だ?」 「将兵二個大隊、少なくともその準備は出来ていた、だけど今回の痛手を引きずっているから再編制されてもっと多いかもしれない、おそらく明日には総反撃に出るはずよ」 「ふむ…」 男は明朗な彼女の答えにやや感嘆したようにしばし黙り込んだ。 「貴重な情報をありがとう、野副曹長」 男が椅子から立ち上がった。 「だが解せんな、なぜそのような情報を素直に私に話すのだ?君とて軍人だろう?」 長身の男は雅美の目の前まで歩み寄り彼女の真っ直ぐな瞳を覗き込みながらたずねた。 「軍人である前に人間よ、どんな兵士だって自己の良心に基づいて戦闘を放棄する権利がある、殺し合いがしたければ勝手にするがいい、私の望みは私の持てる情報とひきかえに私たちの身の安全を保証してくれること、ただそれだけよ」 雅美の口調に淀みはなかった、これがたかが21歳の小娘かと内心大佐も感心していた。 「君の望みはよく解った」 男は心底感嘆したように幾度か軽く頷いた。 「私は君を非常に気に入ったよ、個人的にはね、だが軍人としては些か甘すぎる、君が私の部下でなくて良かったとさえ思っている」 「生きることを望んで何が悪いの?」 雅美が反論した。 男が口元に皮肉めいた笑みを浮かべて彼女に言った。 「一人間としては全く正しいよ、君は、だが軍人としては失格だ、まあ明日総反撃となればこちらとしては準備期間もロクに設けられないし撤退するにしても戦闘になるにしても結局は痛手を蒙るだろうな、どのくらいの規模かは想像でしかないが、それがわかってて素直に話したんだろう?君は実に明晰だ、その明晰さに免じて君の望みをかなえてやってもいい」 その言葉に雅美の目が希望に僅かに見開かれた。 「ただし」 その希望の光を見透かしたがごとく男が付け加える。 「生きて帰れるのは君か、あの部下の少女かどちらか一人だけだ」 雅美の表情が今度は驚きに固まる。 「人質は一人で十分だ、こちらに捕虜がいることを大々的に公表しよう、そうすればそれを盾に最低一日、彼らの総反撃を留まらせられる、それならこちらにも歩があるというものだ、そして、君とあの娘とどちらが生き残るか、その選択権は情報提供者である君に与えよう」 …そういうつもりか。 雅美は無意識に爪が食い込むほど拳を握り締めていた。 「私にも立場というものがある、大きな痛手を食らわされた敵軍捕虜を素直に返してやってしまっては指揮官としての面目が立たない、事実部下たちからも君らの処刑を望む声が大きい。だからどちらか一人、生きて返せるのは一人だ、もう一人は、そうだな、見せしめの意味も込めて辛酸極まる拷問の末、死んでもらうことになるだろうな」 雅美の拳にますます力が篭る、嫌な汗が額を伝う。 「さて、それでは聞こう、君が生きて帰るか?それともあの下士官の娘か?」 雅美はしばらく沈黙していた、だが聞かれるまでもない、雅美の心は初めから決まっていた。 脳裏にイェジンと過ごした日々が廻る、 ―私たちはいつも一緒だったね、まるで姉妹みたいに。 ―イェジン、許してね。 やがて雅美が伏せていた顔を上げた、額を流れていた汗は既に乾き、その瞳に一点の迷いはなかった。 「イェジンを」 雅美の声は清く美しい殉教者のように曇りなく響いた。 「チェ・イェジン一等兵を無事帰還させてください」 男もこの答を予想していたのか、さも満足げにその端整な顔に笑みを浮かべる。 「それでいいんだね?」 「はい」 彼女の顔に恐怖や迷いの色は全く浮んでいなかった。 この気高い精神を持つ女性に男の加虐心が擽られたのか、男の中に更に残酷な条件が閃いた。 「…わかった、ほかならぬ君の願いだ、聞き届けよう、ただしもう一つ条件を追加していいかな?」 男の言葉に雅美の表情が険しくなる、イェジンを無傷では返さないつもりか? 「…それは、なに?」 低く、威嚇するように雅美が聞き返す。 「なに、君次第さ」 男は訊問室の簡素な机に寄りかかるようにその長身の体重を預けた。 「君を拷問にかける、そして最終的には死だ。それは変わらない、だがその間君が一声も泣き言や哀願の言葉を発しなかったら、あの娘は間違いなく無傷で返してやろう、約束する、もちろん不意に漏れたうめき声や反射的な小声は許そう、いくらなんでもそこまで押さえるのは不可能だろうからね、だが一切の悲鳴を禁じる、君が死ぬまでそれが出来たら、彼女は五体満足で引き渡そう、そしてもし君が苦痛に我慢出来ず助かりたくなったら、たった一声嘆願すればいい、その代わりあの娘を殺して、君は手厚く治療して解放してあげよう、どうだね?」 雅美の顔が苦渋と露な侮蔑に歪んだ。 「…やっぱりそうくるのね…結局、貴方も楽しんでるってわけね、大佐ともあろうものがその程度の器なの?見損なうわ」 「手厳しいな、私は君を非常に気に入った、だからこそどちらかといえば君に生き残ってもらいたいのだよ野副曹長。これは君達のためというより私自身の為さ、わかるだろう?君がどうか苦痛に負けて哀願してくれることを願っているんだよ。まあ私の思惑はともかくとして、君はやってくれるのか、それとも諦めるか」 なるほど、思った以上に甘くはなかった。 「…それが条件なら、やるしかないでしょう、でもそれを成し遂げて、本当にイェジンを傷つけずに返してくれる保障はあるの?」 「君がやってくれるなら保障しよう、心配しなくていい、私は約束は守る男だ、とはいえ、信用してもらう以外今はこれといった証拠を見せられないのが残念だがな」 大佐の口調は軽かったがその目を見れば本気であることは誰でも判るだろう。 「…わかった、信用する、絶対よ、敵とはいえ大佐ともあろう者が約束までも反古にはしないと、私も信じたいからね」 雅美の心は決まっていた、何が何でもイェジンを救うと、たとえこの男がもう一つ信用に足りなくとも、自分にやれることはすでに示された。それに全力で従うしかないのだ。 イェジンの未来を守る為に、イェジンさえ助かれば、私には、もう望むことは何もない。 私が死んでも、イェジンが生き延びてくれれば、私はイェジンと共に生き続けられるだろう。 雅美の拷問という名の処刑はほぼ一時間に渡った。 彼女は優秀な軍医の手でほとんど生きながらにして解体され、何度も心停止を起こしかけては強心剤を投与され失血が酷くなれば輸血を受けショック状態に陥れば抗ショック剤 を投与され、地獄の苦しみの中で強引に生かされた。 そしてその美しく気高い顔以外に無傷の場所などほとんどなくなった頃やっと彼女はその苦しみから解放されたのだった。 大佐も感動したことに、彼女はこれほどの苦痛を受けながら本当に一声も上げる事無く死んだ。 その死に顔はどこか穏かで、まさに殉教者と呼ぶのに相応しい清らかな美しさがあった。 「アーメン」 大佐は雅美の死体を前にして一言そう呟いた。 雅美が連れて行かれてから既に4時間近く経過していた。 だが独房のイェジンにはもっともっと長く感じられただろう、粗末な毛布を胸に抱きしめ一刻も早く雅美が無事帰って来てくれることを祈っていた。 やがて、大佐率いる数人の憲兵隊がイェジンの独房にやってきた。 イェジンはにわかに不安になった。 なぜ雅美がいないの?雅美はどこ? 怯え震えるイェジンに憲兵の一人が告げた、 「チェ・イェジン一等兵、明日、君の身柄を一日の休戦を条件に連合軍に引き渡す、既に向こうにも通達済みだ」 イェジンは驚いた、私は解放されるのだ、だが雅美は? 「…雅美は…?」 イェジンが中央の大佐に向かって震える声で尋ねる。 「野副雅美曹長はリストに入っていない」 憲兵が事務的に告げる。 「…なぜ…私だけなの?雅美はどこ?」 ラウド大佐が罠にかかった子ウサギのように哀れな体のイェジンに低く笑いながら問いかける。 「逢いたいか?」 イェジンがただでさえ小さな身体を抱きしめるようにして震えているのと大差ない動きで何度も頷く。 「よかろう、こちらへ」 ラウド大佐が顎でしゃくって憲兵たちに彼女の拘束を命じる、何の抵抗もなくそれに従ったイェジンの心は不安で一杯だった、なぜ?どうして雅美は一緒じゃないの?雅美はどこにいるの?この人たち雅美をどうしたの? 不安に足がもつれるイェジンはほとんど引きずられるようにしてそこへやってきた。 先ず、その部屋のドアが開いて見えたのは赤い色。 そして肺を侵食し、呼吸をさえぎるほどの濃い血の匂い。 赤い、崩れた人の形、それは何? イェジンには目の前のそれが何であるか見えていても脳がしばらく理解を拒んでいた。 赤い、雅美の顔、きれい、でも、動かない。 そして、皮膚を剥がされ、筋組織を丁寧に切り分けられ、内蔵のほとんども切り離されて空っぽになった腹腔、バラバラにされたその、首から下。 ギリギリまで生かされていたであろうことを示す大量の輸血パックの残骸。 白痴のように呆然とそれを眺めるイェジンに大佐が声をかけた。 「彼女は素晴らしかったよ」 イェジンの心が僅かに動いた、最初に走ったそれは実際の痛みだった、心も酷く傷つけば現実の痛みを伴うのだとこのとき始めて知った。 「君の保身を条件に、彼女には拷問を受けてもらったんだよ、それも一声でも悲鳴を上げたら君を殺すという条件付でね」 ドクン。と今まで止まっていたのかと思うほど鮮明にイェジンの心臓が大きく鳴った。 「まさかやり遂げるとは思わなかったよ、彼女の苦しみはさして長くは続かなかった、そうだな、精々一時間くらいのものだった」 だんだんと自身の心臓の音に支配され周りの声が遠くなっていった。 雅美が、死んだ。 私の為に? こんなになるまで耐えて、痛かったでしょう?…こんなに…こんなに…、痛かったでしょう?苦しかったでしょう?雅美、可哀相な雅美、私の為にこんな、私の為に?私の所為で…? はっきりと、雅美の死を理解したイェジンは、慟哭を上げるでもなく、絶望にくずおれるでもなく、泣叫ぶでもなく、その場に立ち尽くしたままだった。 もしこのとき彼女の心の音が聞こえたとしたら、それは歪みゆく金属の音のように不快な軋みを上げていたことだろう。 このとき彼女の心はひび割れ歪んでねじ折れ、崩壊した。 イェジンの首がかくんと斜め後ろに折れた、そして、ついで大きく開かれてはいたがどこか焦点の失われた目が彼女の後ろに立つ大佐にぐるんと向けられた。 「…必ず…」 地の底から響くような、怨嗟の凄まじい、それでいてまるで抑揚のない低い声をイェジンが発した。 「…必ず、貴様を捕まえて、同じ目に合わせてやる…」 イェジンの瞳は既に正気の人のそれではなかった。 「…楽しみにしているよ、チェ・イェジン」 男はこの少女の狂った瞬間を目にして満足げに笑った。 この娘はきっと戻ってくるだろう、ラウド大佐は確信していた、そしてそれを楽しみにさえ思ってた。 再び、自分の前に現れた時果たしてこの娘はどんな風になっているだろうかと。 直後、イェジンは崩れ落ちるようにして気を失った。 イェジンはベッドの上で忌まわしい記憶に悶え苦しんでいた。 手のひらの傷口を嬲っていた親指は、いつの間にか縫ったばかりのその傷を貫通してしまっていた、それでもイェジンは凶行をやめない。 雅美、雅美、雅美雅美、まさみ。 写真の中の少女に向かって呼びかける。 傷を縫い合わせた糸は今は凶器となって傷口を更に大きく引き裂いていた、自らが抉った傷は脳に途轍もない痛みの信号を送ってくる、だがイェジンにはそんなことはどうでもよかった。 いや、むしろこんな痛みでは足りないとばかりに躍起になって傷を抉り引っ掻く。 全身汗まみれになっても苦痛を訴える声は上げない。 ― 雅美の受けた苦痛に比べたらこんなものはどうってことない!!こんなの痛みであるものか!! その後無事救出されたイェジンは自分だけが生きていることに酷い罪悪感を覚えるようになった、それだけならまだしも、なんの痛みも感じない無事な自分の体がひときわ忌まわしい物に感じるようになってしまった。 常に彼女の体は痛みを欲していた。 彼女が捕虜の身から開放されて以来、それは始まった。 彼女が救出されたとき、全くの無傷ではなかった、雅美の無残な遺体を見せつけられた後、しばらくして意識を回復したイェジンはほとんど正気を失いこの場にいない大佐に向かって呪詛の言葉を叫んで暴れまわった、あまりの恐慌ぶりに敵軍兵士達も彼女を押さえつけるのに相当苦労したようだ、左腕の橈骨を骨折してしまっていた。 だが、安全なはずの軍病院に収容されたイェジンは僅か1日の後には拘禁服をきせられて24時間体制で見張られることとなった。 なぜなら収容された夜にギプスで固定された骨折箇所を振り回し壁やベッドの柵に無茶苦茶に叩きつけてしまったのでギプスは割れ、単純な橈骨骨折だった腕は、見事に尺骨まで折れ、それでも止めなかった為に骨は粉々に砕け、さらに砕けた骨が肉を破って突き出す開放骨折と怪我のグレードが跳ね上がってしまったからだ。 理由を尋ねられたイェジンは「なぜ私は生きているのか、なぜこの体は苦痛を感じていないのか、そんなことを考えていたら急に頭に血が上って、それでつい腕を壁に叩きつけてしまったんです、少しだけ、気分がよくなりました。」といったそうだ。 またあるときにはこんなこともあった。 それは野副雅美が非業の死を遂げてから半年あまり経ったある朝のこと。 医務局にイェジンが現れた、その姿を見た軍医達は思わず悲鳴を上げた。 何故なら彼女の口元は血塗れでその口内には一本の歯もなかったからだ。 彼女は自身が手にした膿盆の上に己の歯を並べていた、自分で一本残らず折り取ったのだ。 聞くところによれば彼女は昨夜、また例の自傷発作に襲われ、手近にあったペンチを手にするとそれを己の歯に向けて、勿論麻酔無しで一本一本捻り折るようにして抜歯してしまったのだ。 首から上の部分において歯に対する拷問は最も苦痛が激しいとされている。 彼女は途中何度も痛みで失神しながらも目を覚ましては果敢にペンチを再び手に取り、歯を折りまた失神しては覚醒して歯を折ることを繰り返して全部抜けきるころには夜が明けてしまったそうだ。 これにはさすがに軍医のみならず彼女の上官も頭を抱えた。 彼女の歯は今は人工歯根による差し歯である。 入れ歯よりはもっと進んだ技術であるが、人工歯根を植え込む最、イェジンが麻酔なしの処置を希望したが当然の事ながら受入れられるはずがなかった、それは当然といえば当然だ、だが当のイェジンはずいぶんと不満らしかったそうだ。 彼女の心の傷の深さは深刻であると誰もが認めざるを得なかった。 今は軍営の精神病院に入院しカウンセリングを受けながら心のケアに全てを傾けるべきだと上官から説得されても彼女は頑として応じなかった。 現役でありたいと願い続け、幾多の戦闘にも志願し、そして輝かしい功績をいくつも挙げた。 彼女は憑り付かれた様にトレーニングに日々励んだ。 そして着実に軍人としての実力を付けていった。 だが、それでも彼女の奇行は止むことはなかった、むしろ日を追う毎に酷くなった。 彼女の手足の指先の爪は伸びては剥がすのでややいびつになってしまったが今は短く生えている、だがある程度長くなればまた剥がされる運命だろう。 ナイフで自分の性器を何十回も突き刺したこともある。 背中に発火性の液体を塗って火をつけたこともある。 彼女の両の乳房は既にない、彼女自身の手でペンチを使い何百もの小さな肉片に変えてしまったからだ。 体中に自らが押し付けた焼き鏝の痕が痛々しく残っている。 手の届く範囲の皮膚は一度は剥がされているだろう。 もちろんすべては最大の苦痛を味わいながらも死なないよう計算づくでの行動だ。 こんな彼女の奇行の全てを挙げていたらきりがない。 以前の彼女を知るものは野副雅美の死と同等に彼女が元の彼女ではなくなってしまったことを悲しんだ。 だが一度壊れてしまった精神は二度と元に戻ることはない。 「死にたがり」 以前の彼女を知らぬ者たちは彼女をそう呼んだ。 しかし厳密に言えば彼女は死にたがりではない、むしろ彼女自身はたとえ仲間の腐肉を喰らってでも生き延びたいとさえ考えていた。 雅美がくれたこの命を簡単に消してしまうなど出来よう筈もなかった。 一見すれば彼女の思いと行動は矛盾があるように見えるかもしれない、だがイェジンにとっては何の矛盾もないのである。 やがてベッドのシーツや軍服を血塗れにしてやっとイェジンは正気に戻った。 ―ああ、さっき縫ってもらったばかりなのにまたやってしまった…。 僅かな後悔を覚えながらもう一度医務局へと向かわざるを得なかった、軍医の非難を受けることを承知で。 ある同僚の女性兵士がこんな風に自分を痛めつけ続けるイェジンに向かって泣きながら言った。 「マーシャがあなたにそんな風になってほしかったと思う?彼女が何の為に自分を犠牲にしてまであなたを生かしたの?」 ―考えたみた、そんなことは何度も何度も考えた。 同僚が言ったセリフがイェジンの心の中でそのまま雅美の口から発せられる。 「あなたにそんな風になって欲しいわけじゃなかった、ただあなたの未来を守りたかった、幸せになってほしかった」 彼女は泣いていた、だがそんな雅美に向かってイェジンもいう。 「そんなこと解ってる、よく解ってるよ雅美、私は生きる、何が何でも生き延びるつもりだよ」 心の中のイェジンも泣いている。 「でも、でもね、雅美、私が喜ぶと思った?あなたの命を犠牲にして生き残ってそれで私が幸せになれるなんて本気で思ってた?」 お互いがお互いを思いやり、その為に生じた矛盾が雅美の命を、イェジンの心を奪ってしまった。 なんという皮肉であっただろう。 「考えてもみてよ、逆の立場だったらどうだったの?雅美の為に私が死んで?それで雅美は幸せになれたと思う?私の為に死ぬくらいなら、いっそ一緒に死んでくれたほうがよっぽど私は幸せだった…」 イェジンの苦しみはたとえ復讐を果たしたとしても、彼女の命が潰える日まで終わらないだろう。 |