小説実験室
〜人で造った、人形〜


「やあ、目が覚めたかい?」
浮上したばかりの意識、霞がかったボンヤリとした視界と頭に、男の低く澄んだ上品な声が届いた。
だが大学生・佐藤秀一がその意識を完全に取り戻し、今の自分の状況を把握するまでにはもうしばらくかかった。
先ず最初に判ったことは、彼はどうやら椅子に座った姿勢のまま眠っていたらしい。
そしてここはどこだろうか?確か自分はさいぜんまで大学で二ノ宮教授の学会論文の手伝いをしていて研究室に彼と二人でずいぶんと夜遅くまで残っていたのだった。
そして、それからどうしただろう。
その二ノ宮教授に―ご苦労様、疲れただろう―と珈琲をさしだされて飲んだ、それからぷっつりと記憶が無い。
少なくとも、ここが先ほどの続きである大学の研究室であるようには見えなかった、なんだか薄暗い、ヒンヤリとした無愛想な灰色の部屋だ。
しかしついぞ自分に声をかけ今彼の目の前に立っている人物は誰であろう当の二ノ宮教授なのだ、ではここはそれでも大学の構内だろうか?
「教授?ああ、すみません、僕は眠ってしまったのでしたか?」
恩師の前で、それも手伝い中に眠ってしまった失策を恥じて思わず立ち上がろうとしたがそれは全く叶わなかった。
なにやらギシッという嫌な感じの軋む音が耳に届くや手や腕が、そして足首までもが抜けそうなほどの強い力で何者かに引っ張られ、アッ、と声をあげて彼は幾分も立ち上がれないうちに再びその体を椅子に押し付けられた。
彼は驚いて咄嗟に己の手足を掴んでいるものの正体を見た。
だが果たしてそれは引っ張られたのではなかった。
佐藤秀一はその腕を足を頑丈な木の椅子に縄で幾重にもこれまた頑丈に縛られていたのだった。
それも見ればこの椅子、なんと部屋と同じ無愛想なコンクリートのむき出しの床に鉄のL字板でしっかりと留められているではないか。
なるほどこれでは立ち上がれるわけが無い、しかし一体誰が彼にこんな真似をしたのだろうか。
「ああ、急には動かない方が良いよ、薬の影響で目眩を起こすかもしれないからね」
その頂は半分以上も白くなっているがまだ十分にふさふさとした髪を上品に撫で付けた、40代も後半になろうというこの紳士、二ノ宮総一郎大学教授はその端整な顔にさも優しげな笑みを浮かべて彼に語りかけた。
―薬?薬と言ったか?一体いつおれが何の薬を飲んだというのだろう?それにこの縄目は一体何のつもりだろう?
佐藤青年は二ノ宮教授の普段のひととなりをよく知っている、彼の一番弟子との呼び声も聞く佐藤にはこれが彼の仕業であると認めざるを得ない状況にあっても、まだその行動と彼の人格との関連が掴み切れずにいた。
「あの、教授、これは一体どういうことなのでしょうか?」
そう尋ねる声に不審はあっても勢いは無い、佐藤は愚鈍にもこれもまだ何らかの必要性(想像も付かなかったが)があって行われたことなのではないかという考えを捨てきれずにいた。
「君が睡眠薬入りの珈琲で眠ってしまったので車のトランクに入れて連れ帰ってきたんだよ、そんなところに荷物のように入れてしまって申し訳ないが人に見られるわけにもいかないからね。クッションを敷いて衝撃は和らげたつもりだけど身体は痛くないかい?なに心配しなくとも良い。そうして縛ったのはね、佐藤君、君に話をしっかりと聞いてもらいたかったからだよ、途中で帰る、などと言い出されたら困るからね。もっともこの邸からは簡単には逃げられはしないけどね、とにかく私の話を聞いてもらいたかったのだよ」
睡眠薬入りの珈琲だって?ではあの時研究室で彼に渡された、あれだ、あの中に入っていたのだ。
「途中で逃げ出されたりしては困るからね」とは一体どういう事なのだろう?話を聞いてもらいたいと彼は言ったが、それだけなら何もこんな風に縛り付けて拘束する必要など無い、ましてや自分を薬で前後不覚にしておいてまで。
―まてよ、車のトランクに入れて連れて帰ってきたということはここは二ノ宮教授の自宅なのか。一体彼は自分をどうするつもりでここに連れてきたというのだろう?
「なんですって教授?冗談はやめてください、話を聞けとおっしゃるならもちろん真面目に聞きます、なにも縛る必要などどこにも無いじゃないですか」
「いいや、あるのだよ。まあそれは今に判ることだからあえて説明はしないよ、それよりはまあまず私の話を聞きたまえよ」
二ノ宮教授は佐藤秀一に顔を近づけてマジマジと見つめた、その目にはどこか愛しげな色合いが含まれていることに彼は気がついただろうか。
「ずいぶん前私は君に話したね。さすがに覚えていないだろうか?ほら、君が私の講座についたばかりの頃だった。私がここの学生だった時分、そうだねもう20年以上も前になるのか、そのときの友人に君にそっくりの男がいると話したじゃないか?覚えていないかい?」
佐藤秀一はそういわれて一年ほど前になるある日彼と交わした他愛も無い会話を断片的に思い出していた。そういえば、確か、あれは教授に出会ったばかりの頃、彼の講義に感銘を受け彼の講座に専攻を決めたときのことだった。
二ノ宮教授は生物学における日本の研究者の中でも最も権威ある研究者であったそして同時に音に聞こえた人格者でもあった。佐藤としては単純に尊敬する人物の元で好きな研究をしたくてこの道に足を踏み入れたのだった。「日本でも随一の権威」と聞けばおいそれと新入りの学生になど話しかけてはくれないものかと思っていたのだが。しかし数ヶ月ほど経ったある日、勉学に友人との交友にとまずまず充実した大学生生活をおくっていた佐藤は教授の方からお声をかけてくださるという光栄に預かったのだ。
その日、彼は個人的に食事に誘われた。食事の席で教授は自身が感じた佐藤の評価について語って聞かせた。
「聞けば君はなかなか優秀だそうじゃないか、君のような若くて優れた研究者が増えてくれたことを喜ばしく思うよ。それに先日提出してくれたレポート、あれはなかなか興味深かったよ、着眼点が面白い」
権威ある教授にこんな風に褒めちぎられては、さすがに悪い気などしようはずもなかった。はじめこそ緊張はしていたが話が進むうちに非常に興味のある専門的な話なども詳しく聞けてだいぶ気安くなり会話が弾むようになった。
そんなとき突然、彼が突然ふっと思い出したように話題を変えてこんなことを言い出した。
「君によく似た友人が昔いたんだよ」そう言いながら形のよい目もとを懐かしそうに細めた。
彼の涼しげな目元やその白髪混じりの髪は落ち着いた大人の男のそれであり、女子学生に常に人気があった、なるほど、彼は既に40も後半に入った年頃だが実に端整な顔だちをしていて背もすっきりと高く、若かりし頃はさぞもてたであろうことがうかがえた。
いや、今でも十分に女子学生からの人気は高かったのだがそれにしては何故か彼はこれまで一度も結婚をしたことが無いらしい。
いつかとある女子生徒になぜ未だに未婚なのかと聞かれて「研究ばかりしていたらいつの間にかこの歳になってしまったんだよ」と当たり障りなく答えていたことがある。
「そう、友人の彼の名前は『成瀬 壮介』と言ってね、私がこの大学の学生だった時分の友人で一緒によく勉学に研究にと互いに励みまた張り合ったものだったよ。今では全てが良い思い出さ。いや、最初君を見たとき成瀬君がなぜここにいるのかと思ったほどだったよ。今こうして見ていても全く生き写しだ。まあ彼も私とは同い年だからね彼本人だったとしても君のようにそんなに若いわけは無いんだがね」
ハハ、と明るく笑って一旦彼は言葉を切った。
「そのご友人はご健在なのですか?」と佐藤が聞き返した、それほど似ている人物が、とは言えすでに20年も前のことではあっても存在したという事に興味を惹かれたのだ。
「うん、いや、彼はね、志半ばで、学校を辞めてしまったんだ」すこし口ごもりながら二ノ宮が答えた。
「…以来疎遠になってしまってね、いい友人だったんだがね。今はお互いにお互いの人生を歩んでいるのだから今更敢えて彼を探そうとは思わない、しかしそのとき成瀬君が挫折したにも色々な事情はあっただろうが私としては残念でならなかったんだよ。だから佐藤君。彼によく似た君が私の元にやって来たのを偶然で片付けるのは簡単だ、だが私は運命論者ではないがそれでも君には非常に「運命的」なものを感じざるを得ないのだよ、そして今私がここの教授として勤めているからにはいよいよ持ってなにか巡り合せというか因縁のようなものを強く感じるのだ。今でも毎年志半ばで挫折を覚える学生は多いがそうした者達やかつての友人と同じ道を君には辿らせたくないんだ。研究者の道は決して平坦ではないが私が出来る限りの協力はするから、君、君だけは諦めたりしないで最後まで私に付いてきてくれたまえよ」
そう熱く語って二ノ宮教授は佐藤の肩を掴んだのだった。その言葉に佐藤も心強く感じたものだ。

確かにいつかそんなことがあった。

二ノ宮は縛られて動けない佐藤の両の肩にそっと手を置いて顔を付き合わせるように正面に見据えた。
「ああ、君は本当にあの『成瀬君』に生写しだよ」
まるで至宝の宝石を目の前にしたかのようにうっとりとした口調で言うと今度はスッとその身を離して一転して見下すような視線を注いだ。
「だがあくまで顔だけだがね。彼はもっと君より物静かで上品な男だったよ、君が下品というわけではないが君はとても今時風とでも言うのか元気で快活な青年だからな少しばかり格調に欠けるのだ。おまけに成瀬君は生まれつき胃腸が弱かった所為か食も細くてね、いまの君よりもう少し痩せていたな、背ももう少し低かったし声も違う。」
彼の目は郷愁をおび、その思考は遥か20年前に舞い戻ってしまったのだろうか、どこか焦点が合っていない。
「私はね…彼を真剣に愛していたんだよ」
さいぜんから彼の行動の意味を探ろうと真剣にあらゆる可能性を思いをめぐらせてきた佐藤だったがこの台詞こそ最も意外でさすがの彼も面食らってしまった。
「もちろん、その想いを彼に伝えようなどとは微塵も思いもしなかったよ。同性同士だからね。よし彼に嫌われてしまうなんてことになったらそれこそ耐えられることじゃない。心の中に思いを秘めて一生このまま友人としての立場を押し通そうと覚悟していた。だがそんな覚悟はしたとは言え平生彼とは親しくしているのだもの日に日に彼への想いは募るばかりでさすがにずいぶんと苦しい思いをしいられたよ、ましてや彼は音に聞こえた美青年でおまけに優秀で品もよくそれこそ女性からのアプローチも絶えなかったものだからいつか何処かのお嬢さんに取られてしまいやしないかとヒヤヒヤし通しだったものさ、とはいえ、そのほとんどを彼が勉学の邪魔になると言って断っていたのがまだ救いだったがね。まあ、自慢ではないが私自身もその頃はなかなかの好男子で通っていたけれど私はこの気持に気がついて以来彼以外に目を向けようとは思わなかった。それが叶わぬまでもこの恋に一生を捧げて生きようという一種の悲壮で甘美な覚悟だった。それくらいに本気の恋だった」
二ノ宮の言葉は異形の恋の思い出に陶酔しきっているようでいて、一応は佐藤に話しかけてはいるのだがどこか独り言じみていた。

「だがそのうちにどういう心変わりか彼に好いた女性が現れてね」

今から二十数年前。
大学生だった二ノ宮総一郎と彼の人・成瀬 壮介は同じ寮に住んでいた。
大学になってから知り合った二人だったが、不思議なほどすぐに互いに親しみを覚えたのだった。
両人とも志す道が同じだったゆえもあり必然として平生から友人達の中でも一番親しくしていた間柄だったこともあり、しょっちゅうお互いの部屋に入り浸たってはそれぞれの討論を夜が明けるまで交わしたことも一度や二度ではなかった。
そうするうちに二ノ宮青年の心に成瀬 壮介に対する恋心が生まれて行ったのであろう。
当時の二ノ宮総一郎は決して醜い青年ではなかった、寧ろそれこそ俳優の誰某に似ているなどと評判の端麗な顔立ちである。
一方の成瀬 壮介も仲間内では評判の美青年だった。
だが二ノ宮はこの恋心に気がついても、それを成瀬に伝えることは一生ないであろうと思っていた。
このまま彼の一番の友人として親密でいられさえすればそれで良いと思っていたからである。決してそれ以上を望んだことは無いのだ。
秘めた恋心が時々彼の心を締め付け、時折、長い夜の孤独な帳に耐えられないこともあっても彼の自制心がよほど強いのか多くの場合一過性で終わってくれた、さればこそ大学3年のその秋まで友人関係を続けていけたのである。
よき親友だと思ってくれている成瀬を傷つけたくはなかったし、また自身も傷つきたくなかった。二ノ宮青年は何事においても自信に満ちた男だったがこの恋だけには非常に臆病だった。
いずれ卒業しお互い伴侶を見つけ結婚して互いの家庭を持ったとしても致し方ない、ただ我々にはおなじ一生をかけて志す学問の道がある、それが彼と自分とを一生結んでくれるだろう。
そう願い、信じていた。

彼らが大学3年のその秋。、いつものように成瀬 壮介が二ノ宮の部屋に訪問し他愛も無い歓談をしていた。
そのとき彼が突然言い出したのだ「二ノ宮君、君には想う人があるかい?」と。
脛に傷持つ二ノ宮はその言葉に一瞬ギクリとしはしたが勤めて冷静を保つよう努力して聞き返した。
「いいや、勉強が忙しくてまだそんなものはいやしないよ、君、どうしてそんなことを聞くんだい?」
すると成瀬青年はその美しい顔をまるで女のように朱に染め上げながら「実は僕は好きな女性が出来たんだ」と言った。
それを聞いたときの二ノ宮青年の心の中はまあいかばかりだっただろうか。
怒りでもない、悲しみでもない、ともすればそれは恐怖にも似た感情だったかもしれない。
不自然に固まった二ノ宮の表情にも気がつかず成瀬は続けた。
「その女性と言うのはね、この近くに住む女学校の生徒さんなんだ、とても美やかな女性でね。君に黙っていたのは申し訳なかったけど気恥ずかしいのもあったしそれに真面目に勉学に励んでいる君に軽蔑されやしないかと不安でもあったんだよ、ね、君、僕の事を不純だとは思わないでくれ。僕はこれまで決して学習をおろそかにはしていないよ。二月ほど前に彼女のご両親にも合って真剣に交際を始めたんだ、彼女の両親というのがこれが思った以上に理解のある人で僕らの仲を嫌な顔もせずに認めてくれたんだよ。知っての通り僕には両親も兄弟もいない身の上だ、それだけでも立場はよくはないから到底許しは得られないだろうと思っていたのに実にありがたいことだよ。彼女が女学校を卒業したら正式に許しを得て彼女と結婚しようと思っているんだ。もちろん僕が卒業するまでは夫婦として一屋根で生活したりは出来ないだろうけど…。」
美しい白い頬を朱に染めながら話す成瀬の顔は一段と美しかったに違いない。
だがそれを聞いている当の二ノ宮青年は彼とは真反対に顔からは血の気が引き、全身からは恐怖に似た感情からの嫌な汗がつたり落ちていた、おまけによく見れば手足が小刻みに震えてさえいたのだ。
だがそれに全く気がつかぬ成瀬青年は今度は表情を曇りがちにして話を続けた。
「だがね、困っていることがあるんだよ、僕が卒業したら彼女のご両親が出来ることなら僕に彼らが経営する貿易会社の勤め人になってほしいと言っているんだ。僕は大学に残って研究を続けたいが向こうのご両親からすればいくら自分たちが富豪でも幸先の不安な貧乏学者よりは安定した地位にある人物に娘を貰ってもらいたいのは当然の気持ちだろう。そうなれば僕は博士課程に進む事無く大学を辞めざるを得ないんだが…無論、学者の道を諦めたくはないし、かといって理解ある彼女のご両親の期待に背くことも出来ず迷ってしまっているんだよ、ねえ二宮君、僕はどうしたらいいんだろう?」
ここまで語り終えた成瀬 壮介の顔は時に幸せそうでもありまた時に困惑の色も露だった。
それはそうだろう、長年の夢を取るか愛する女性を取るかの非情で難しい二者択一を迫られているのだから。
だが二ノ宮にはそのとき成瀬の顔が何か得体の知れないものに見えていた。
見知った彼ではない、おれの愛していた彼ではない、ではこれはなんだろう?
その恋人とやらが大切な彼を奪おうとしているばかりではなく、違う人間にさえ変えてしまったのだろうか?
ともすれば悩む彼は二ノ宮の描いてきたささやかな彼との未来の結びつきさえ断ち切って一介の勤め人になってしまうかも知れないのだ。

―そうなったらおれはどうなるというのだ、彼とずっと歩んでいけると信じていた。いや、それはともかく、第一それは確実な社会的出世と今まで志してきた夢とのどっちを取るかの不純な両天秤じゃないか。
見損なった、君はそんな出世欲に駆られるような人間だったのか。ましてこのおれの知らないところで君は…。

そのとき二ノ宮の脳裏に幻よりもはっきりと妖しげな月明かりの下で睦み合う成瀬と見知らぬ少女の幻影が浮んでいた。
―憎い。
どす黒い、生まれてこの方持ったことの無いような激しい感情が二ノ宮青年の中で轟々と渦を巻き始めていた。
見たことも無い恋敵の女を憎く思った、自分を見捨てて行こうとする成瀬を薄情者に思った。
だがその嫉妬の矛先は不幸にも今ここに姿のない恋人の女ではなくもう一人の憎い相手、目の前の成瀬青年に向かった。
「…だめだ…許さないぞ」二ノ宮青年の口から怨嗟の凄まじい低い声が漏れた。
激しい嫉妬に駆られて動き出した彼の身体が一番にしたことが恐ろしい暴力だったのは魔が刺したとしか言いようがない。
とっさに、二ノ宮は成瀬に踊りかかった。襟首を掴まれ畳に引き倒された成瀬青年には一体何が起こったのか分からなかっただろう。
「だめだだめだ!僕を裏切るなんて絶対に許されないぞ成瀬君!」
そういいながら二ノ宮青年は全体重をかけて彼の上に圧し掛かりその首を力の限り締め上げた。
もちろん、成瀬も彼の憤激の意味が判らぬまでも喉が潰れそうなほどの力で締め付けてくる彼の手を何とか振り解こうと必死に抵抗した。
だが生来あまり力のあるほうでは無い成瀬の腕では激情に狂った二ノ宮の尋常ならならざる力から逃れることはなんとしても叶わなかった。
ほどなくして二ノ宮の腕に苦しみの余韻の爪あとを残し動かなくなってしまった。
パタ、と軽い音を立てて二ノ宮の腕を掴んでいた成瀬の腕がたたみの上に力なく落ちた。
その段になってやっと、初めて二ノ宮は正気に返った。
彼の首に手をかけたままの格好でいる恐ろしい自分を省みた。
先ほどまでの激情が波が引くように消え去り、今度はなんともいえないおぞましい感覚が背中をゾクリと這い上がった。
ワアッ!っとヒステリックに叫んで今まで締め上げていた成瀬の首から咄嗟に手を離した。
おれは、おれは一体なにをしたのだ?ああ成瀬君が、成瀬君が死んでいるじゃないか、何故こんなことに?おれが殺したんだ、おれが。
二ノ宮は己の激しい怒りがしでかした惨劇の残骸である成瀬青年の命の抜けた身体をガタガタと震えながら見つめていた、ただただ震えるだけでそこから目をそらすことも何かの行動を起こすことも出来なかった。
―ああ、成瀬君、どうかおれを許してくれ。ただおれは君がおれの元から離れて行ってしまうのが怖かっただけなんだ、決して君を傷つけたりしようなんて思いもしなかった。本当におれは君が好きだったんだ。だが君があまりに悲しいことを言うから…。
いくら慚愧にくれてみてももう遅い。二ノ宮は恐ろしい殺人犯になってしまったのだ。
その足で自首すればすぐさま彼は逮捕されるだろう、どれくらいの罪を受けるのかはわからないがとにかくこれで彼自身の有望な前途も消え去ったも同然だ。残るは殺人犯の汚名と愛する者をこの手で殺してしまったという計り知れない罪悪感のみ。その一生は耐え難い苦しみだけのものとなるだろう。
それくらいならいっそ、どうせ黙っていても発覚するのだ、自首などどうでもいいからここで彼を追って自殺しようかと彼は思いついた。
そうだ、それがいい、そうなれば彼と一生一緒にいられるではないか、あとの世間の風評がどうなろうとそれはもう自分の感知することではない。そうだそうしよう、彼と一緒に死んで彼に心から詫びるのだ。
そこまで考えた二ノ宮は机の中から戯れに持っていたジャックナイフを震える手で取り出して開いた、そしてじっとその刀身を見つめた。
だがそのときだった。
成瀬の死骸とナイフの切っ先を交互に見つめていた二ノ宮の目に異様な光が灯った。
死んでしまうくらいなら、それだけの覚悟で出来ることが他にあるのではないだろうか?
二ノ宮の生来の回転の良い頭が現実に迫った死を前にしてやっとまともな方向に働きだした、いや、これから彼がしようとしていることを知ればまずそれは「まともな方向」では全く無かったのだがとにかく彼に思考力が戻ってきた。
二ノ宮は素早く周りに気を張った。
元々、この寮にいる生徒は少なく幸いにもこの二ノ宮の部屋は角部屋で薄い壁を隔てた隣部屋はつい半月ほど前から空き部屋という好都合だ。
誰かがこの騒ぎを聞きつけて不審がってやってくるのが恐ろしかったがどうも廊下にも廊下を隔てた向かい部屋にも人の気配は感じられない。
それもそのはずだった、思い起こせば今日は近くの神社で秋最後の祭りが行われている、ほとんどの寮生はみなその祭りに出払ってしまい、残っているのはそもそも祭り騒ぎより討論好きという変わり者で評判の二ノ宮と成瀬だけだった。
いや、他にもこの寮の管理人の爺さんが残っていたはずだが彼は耳が遠い、面と向かって話しても大声で無ければ通じないのだから。先ほどの寮の片隅で起きた恐ろしい出来事など聞こえよう筈も無い。これはなんという好都合だろう。
あと問題はこの悪魔のアイディアを実行に移す「場所」だ。
どう考えても他に場所は無い、ここでやるしかないだろう、遺体を大学に運べれば必要な物は全部取りそろうだろうが運ぶ手段が無い、第一ここでのことを幸いにも知られなかったとはいえ、運ぶ最中に誰かに見られでもしたら折角の幸運も努力も全て水の泡になる。
そう考えた彼は先ず押入れの中から解剖実習に使った大きなビニールシートを取り出して部屋一杯に広げ敷いた。先ほどのジャックナイフと、解剖用に使う大型のナイフの2本を用意する。これらは通常学校において置く物だが二ノ宮は先日の課外実習で農場へ行った際持って行ったこれらを自分の荷物にまぎれて誤って持って帰って来てしまっていたのだ。だが大して高価なものでもないしこれがなければ明日の授業に差し障るようなものでもなかったので「あとで折を見て返せばいい」と気安く思っていたのがそのままになっていたのである。
しかしこれは後から思い返してもなんとよく出来た好運だっただろう。
カーテンを閉め、誰も入ってこられないようについでにドアにかんぬきもかけた。
そして成瀬青年の死体をそのシートの真ん中に横たえ服を脱がせ始めた。
彼がなにをするつもりか恐らくはまだ誰にも予想は出来ないだろう。
このまま成瀬壮介の遺体をその刃物でバラバラにでもして捨てようというのか?
いや、彼が思いついたのはそんな単純なことではない。
彼は以前実習の一環で学んだ動物の「剥製」を作る技術を応用してなんとこの成瀬壮介の死体を保存しようと考え付いたのだ。
愛した彼の死体を美しいままで保存し、所有する。これこそ初めから叶わぬ恋と諦めていた二ノ宮にとって天が与えてくれたに等しい奇跡のようなチャンスであり永遠に彼を手に入れる至高の方法であるように思われたのだ。
そんな薄気味の悪い考えを起こしたのはあるいは二ノ宮総一郎が殺人を犯してしまった時点で狂ってしまったのかもしれない。
それとも暴走した愛情がこんな凶行に彼を走らせたのか。

成瀬壮介を裸にしてしまうと二ノ宮は自分も服を脱いでビニールシートのしたに丸めて放り込んだ、これは服に返り血を浴びせないためだ、そしてその腹部に先ほどのジャックナイフを当てがった。
彼の考えはこうだ。
まず死体から一番腐りやすい内臓を真っ先に取り去る、そしてしばらく血抜きをし、その後学校からホルマリンを盗んできてその空洞になった身体にこの液体を満たす、そして剥製を作るときに一旦開いた皮を閉じる特殊な樹脂もついでに失敬して開いた腹部を閉じる、もちろん抜き取った内臓の代わりに詰め物もしなければならないがそれは腐るものでさえなければ別段なんだって良いのだ。
内臓だけなら丹念に細切れにして数箇所に分けて廃棄すればたとえ一部が誰かに見付かったとしてもよもや人間のものとは誰も思うまい、大方野犬にでも食い荒らされた家畜のものだとでも思うだろう。これはいざとなればどこにでも捨てられる。
なんなら大学の農学部が飼育している家畜の餌にでも混ぜてしまえばいいのだ。
とにかくこれで彼の遺体を保存できるはずだと彼は思った。
ホルムアルデビトその他を拝借してくるのは造作もなかった、この当時、そうした薬品の管理は現代と違いとかく杜撰だった。
とにかく、先に彼の内臓を取り出して血抜きをしている間に学校に戻ってそれらを盗んでこよう、ここが確かに誰かに見付かる危険のあるところだが、なに、学校の備品を盗んだくらいの罪ならば殺人に比べればたいしたことは無い、それだけならなんとでも言い訳して切り抜ければ良い。ただそうなると材料が揃えられず死体保存計画は失敗に終わる、愛しい人を一生そばに置いて暮らせるどころか折角手に入れた彼を始末しなくてはならなくなってしまう。
だからいかなる場合においても慎重を期さなければならないのは変わらないが二ノ宮にはそれをやり遂げるだけの自信があった。

生き物の皮膚は柔らかいようでいて硬い。
何度か解剖実習を行ってきた二ノ宮にはそれがよく判っていた。ナイフの一番鋭い切っ先を成瀬の鳩尾に当て一度深呼吸をして覚悟を決め、腹膜をも突き破るよう強く突き刺した、ブツッというやや小気味よい音がし、内蔵まで貫通したと思しき傷から生々しい赤い血が流れ出した。
「痛いかい?ごめんよ成瀬君」
二ノ宮は泣きながら手の震えを制し一気に下腹部までナイフを滑らせた。
腹圧というのはすごいもので、こうして腹を切裂いてほうっておくと勝手に内臓がまるでそれ自体が生き物でもあるかのように我先と競うようにしてせり出してくるのだ。
死んだばかりの彼の身体はまだ温かくそれこそ内臓など湯気が上がりそうなほどだった。
内臓独特の臭いは一般的には嫌な臭いと定義されるだろう、それが部屋に充満したが二ノ宮には全く気にならなかった、むしろ美しい彼の中からこんなテラテラと肉色に光る不気味で巨大なミミズのごとく醜悪な「中身」があふれ出す様に奇妙な魅力さえ感じた。
素晴らしくきれいだと思った。これはなんとグロテスクでそして美しい眺めなのだろう。生き物の中身がどうなっているかはもちろん知らぬではないが、やはりこの美しい彼の中身もこんなにおぞましかったのだと思うとそれはそれは不思議な心持であった。
それはまるで二つの全く異なるものが同一に存在しうる人外境の眺めだ。おぞましくはあるがだが同時に強烈に魅かれずにはおられない。
二ノ宮は一瞬、その醜かい極まる内臓の海に自らを投じたい気持にすらなった。
いや、それより彼の中身をすっかり空洞にしてしまって皮だけにし、その人皮の中に己が全身スッポリ入り込んでしまったらどうだろう?つまり彼の皮膚という至上の衣を着るのだ。なんという悦楽。それは一体どんな気持であろうか。
二ノ宮の頭にそうした猟奇的な欲望が次々に湧いては消えた。やはりこれはこうした悪行を迎合する悪魔の誘惑が働いているのだろうか?だが狂人の沙汰を行っているとはいえ元来頭のいい彼はそうした一時の興奮の合間に冷静な声が脳裏から一声掛かると非現実的な妄想を振り払って自分の今やるべき本来の仕事を思い出したのである。彼は大きく頭を振った。
ああ、成瀬君。妄想の中とは言え君を穢してしまってすまない。あとすこしのあいだ我慢してくれたまえ、今君の中からこの汚い醜い物を全部取り去ってその美しい姿だけを永遠に残してあげるからね。これが僕に出来る最高の罪滅ぼしなのだ。そして僕に与えられた崇高な使命なんだ。

しかし次の瞬間、物言わぬ死骸のはずの成瀬青年の手が僅かに震えた気がした。
続いてどこからかげほげほと咳き込む音がして遺体の上半身が捩られた、もちろんその咳の主は二ノ宮では無い。

―まさか、そんな。

二ノ宮はそれこそ実際に心臓が喉まで一瞬せり上がったと感じるほどに驚いた。
なんということであろう、成瀬壮介は死に切っていなかったのだ。
それどころか解剖途中に目覚めてしまうというこの世で最も恐ろしい事態に陥ってしまったのである。
息を吹き返した成瀬の目にまず映ったのは驚愕の表情で凍りついていた親友の二ノ宮の姿だった。
彼は何故か裸でその手にはナイフが握られており血にまみれていた。
続いて反射的に目を落としたのは自分の体だった。そこで信じられないものを見てしまった、まだ生きている自分の腹部が切裂かれてその傷口からヌラヌラと光る赤黒や桃色や色とりどりの内臓があふれ出して床に広がっているのだ。
「アッ…」自分の身に何が起きているのか理解したときに彼の口から漏れたのは引き攣ってほとんど声にならない悲鳴だった。
二ノ宮は本能的に後じさった、このあまりにも猟奇極まる事態を彼も恐れた。それは成瀬を殺してしまったと思い込んだときの数倍の恐怖をともなって彼に知らしめた。
「一体何を…き、君は僕に何を、どうしてこんな恐ろしいことを…」
成瀬の混乱しきった目には友人が友人でなく恐ろしい悪鬼にでも見えたのかもしれない。
「…ひ…人殺し…」彼はとにかくその文字通り引き裂かれた体を引き摺りこのおぞましい殺人鬼から少しでも逃げようとした。だが出血の為か精神的なショックによるものか、血にまみれたその身体はガクガクと滑稽なまでに震えるだけでその手も足もほとんどいう事をきかないのだ。
成瀬が逃げるそぶりを見せたとき二ノ宮の狂気に再び火がついた。
―殺さなければ!今度こそ確実に殺さなければ!!
もうこうなれば彼の命を惜しむなどという考えは微塵も湧かなかった、とにかく罪の発覚を恐れる心と、また惨い状態で「生き返ってしまった」不運なこの青年をなにかしら恐ろしい存在と見る心に支配され最早二ノ宮の中で成瀬は殺すべき相手以外の何物でもなかった。
扉の外に向かって「助けてくれ」と成瀬が叫んだがそれはすでに腹を切られていた所為か擦れてたいした大声にもならなかった。
二ノ宮は既に抗う力もほとんど残されていないこの哀れな犠牲者に馬乗りになって今度はその胸目掛けてさいぜんから手にしていたナイフを振り下ろした。無我夢中になって何度も何度も振り下ろした。

殺戮の惨劇が去った後に残ったのは全身血まみれで呆然と佇む二ノ宮青年とその体の下に横たわるやはり血まみれのそして引き裂かれてズタズタにされた成瀬壮介の無残な残骸だった。それはなんとおぞましい地獄の風景であったことか。
気がつけば成瀬壮介の頭部は胴体から切り離されてしまっていた。
再び生き返るのを畏れた二ノ宮が徹底的に彼を「殺害」したのだ。
その頭部の表情は思いのほか穏かで苦悶の色は一見浮んでいないように見える、それにやはり血だるまではあったがそこだけには傷一つ付いていなかった。その後しばらく二ノ宮はその頭部を胸に抱きしめてまるでかんしゃくを起こした子供のようにいつまでも泣叫んでいた。

さて、そんな悪夢の一夜が明けて果たして二ノ宮総一郎は自首したのであろうか?
いやいや、そんなことがあろうはずもない、それならば現代の世において彼がのうのうと生きて大学教授になっていよう筈は無いのだから。翌日の彼はどことなく鬼気迫る表情をしていたが一目にはいつもと変わらないように振舞っていた。
もちろん大学の講義にもきちんと出席していた。
では成瀬壮介の遺体を彼はどうしたのだろう?

あの殺人劇の後のことだった、成瀬の頭部を抱きしめたまま、まるで考える力をなくしてしまった人のように二ノ宮は裸の体を朱に染めて転がっていた。その目はうつろで何ものも写していないように見える。
しばらくすると彼の方がやにわに震えだした、やがて地の底から響くようなクククという低い笑い声が聞こえだした。
もちろん首だけにされた成瀬が笑うわけは無い、笑っているのは二ノ宮だった、しかし一体どうしてこの惨状の中でかれはさもおかしそうに肩を震わせて笑っているのだろう?ついに彼は本当の気ちがいになってしまったのだろうか?
いや、そうではない。ある意味狂ってしまったには違いないが、それ以上に今度こそ本当に成瀬壮介が自分のものになったのだと言う奇妙な満足感がムクムクと湧いてきてこの事態をおそれるどころかなるべくしてこうなったのだという根拠のない不思議な自信が彼の心を支配し始めたのである。
「やった、やった、成瀬君。君はもう完全に僕のものだ。こうして首だけになった君ですら、僕はひどく愛おしく見えるほどだよ、それに真っ赤に染まった君の体もとても美しい。あちこち肉がはぜてまるで熟れた柘榴の実のようだ。ちっとも醜くなんて無い。そうだ、やっぱり僕は君のこの美しさを後世に残さなければならないんだ、わかっているよ、安心してくれたまえ、必ずやり遂げてみせるから、君を若く美しいまま残してあげるから」

ひとしきり狂人は死体への睦言を呟いた、そして急に活力に漲った二ノ宮はムクと体を起こした。そう、やるべき事をしなければ。
丁度そのとき祭りから帰ってきたと思しき寮生達の陽気な笑い声が階下から響いてきた。すっかり浮かれている彼らだがおそらくはこの後疲れ切ってみな早々に寝てしまうだろう。この寮内が静まり返ったら事を起こそう。それまでは迅速に静かにこの血の池地獄と化した部屋ををすっかり綺麗にしてしまわなくては。
ご丁寧に敷いたシートのおかげでそれは案外簡単にいった。あと問題はこの血だらけの我が身をきれいにすることだ。手ぬぐいで拭いはしたが風呂にはいったようにはきれいにならない、仕方が無い、この寮には風呂が無いのだし洗面所へ行くにしたってまだ他の寮生が起きている以上だめだ。無論この姿で銭湯など論外だ。
仕方なく、彼は寮内が寝静まるのを待ってそっと表へ出た、そして宵闇にまぎれて寮の近所にある公園の池で体を洗うことにした、季節がまだそれほど寒くない秋のことで良かったと彼は思った。そしてさっさと服を着込むと持ってきたある大荷物を持って大学へと向かった。
ここで最初の計画と違っていたのは、二ノ宮が寮を抜け出たときその片手に大きめのバッグを持っていたことだ。中身はなんであろう、もちろん成瀬壮介の遺体の「一部」であった。ただでさえ無残にも首を切り落とされた彼の遺体は更にその後手足をも細かく切り分けられ、この手荷物にしては大きいが人間が入っているとは到底思えないカバンにそのほとんどを詰められて直接大学へ持っていかれることになったのだ。
先ほど遺体の「一部」と言ったが、部屋に置いてきたのは不要な部分、つまり最初に取り除こうとしていた内臓の類だった。
まず二ノ宮が考えたのはまだ夏の暑さの僅かに残るこの季節、早くしないと彼の美しさを損ねることになってしまうということだった。そして最初は彼の遺体を丸ごと剥製にするつもりだったから、それこそ男性一人ぶんの大きさの荷物を誰にも不振に思われず大学に運ぶことは到底不可能だと思われていた、だがあの恐ろしい不運な事故で仕方が無かったとはいえだいぶその体を傷つけてしまったことが返って彼を吹っ切れさせた。ままよとばかりに彼の体をとうとうバラバラにしてしまい、まさか死体が入ってるなどと疑われることの無い程度の大きさのバッグに無理矢理詰めて直接持っていくことにした。そこまで準備を終えた二ノ宮は性急だった。
途中色々なことを考えた、先ず第一に成瀬が失踪したら事件として警察が動くだろう、なぜなら彼には自らの意思で失踪する理由が無いのだ、果たしてその婚約までした女性も当然探し出すだろう、無論親友であるこの僕だって探すはずだ。
そして最後に一緒にいた人間が誰なのかはきっとすぐに寮生たちの証言で判るだろう、この自分だという事が。
さて、どうやって切り抜ける?問題は山積みだ、だがしかしここが自他共に認める彼の頭脳の見せどころである。

上手い事死体を持って誰にも見付かる事無く大学に潜入した二ノ宮が、その後この深夜の学校でどれほど気狂いじみた行為に及んだか、これまでの過程を話しただけでも想像が付くだろうからここはくどくどしい説明はやめてあえてかいつまんで話すことにする。
この大学には医学部もある、従って一旦バラバラにした成瀬の遺体を再び繋ぎ合わせて人の形に戻すのは造作も無いことだった。
まあ尤も死んだ体の傷口がふさがるわけは無いから全ての部分を繋ぎ合わせてもそれはどことなく人間というよりは精巧に出来たマリオネットの様であったが。そして先に説明した通りの彼の頭にあった死体保存計画を寸分狂いなく進めたのである。
そうして出来上がった彼の生人形を隠すのにもこの大学が役に立った。
よく考えてみれば寮などにおいておけばはいつ気安い学友などが遠慮なく入ってきて彼の人形を見つけてしまうか判ったものではない、それに引き換えこの大学の地下には光や湿度を嫌う特殊な薬品などを保存しておく部屋が幾つもあるしそのうちの多くは今は使われていない古い備品を格納しておく倉庫になっている。
そもそもこんな暗くて陰気な場所にそうそう一般の学生たちは寄り付きはしないしそれをさておいても必要も無い備品の入った倉庫など本当に数年に一度開けられるかどうかだ。おあつらえ向きにこの広大な地下講堂には幽霊が出るなどというどこの学校にでも一つはある不気味な噂があったものだからそれこそ普段からして人気は本当に無いのだった。
さらに幸運だったことには人の寄り付かない気安さからかそのうち多くの部屋は厳重に施錠されてもいなかったのである。
彼は広瀬壮介を使って造ったこの生人形を最も人の寄り付きそうに無い備品置きになっている部屋の中に、別の動物の剥製が数体ほど入っていた棺桶のような長めの箱に収めて一旦隠した。その箱に入っていたもともとの主である動物達の剥製はやはり夜のうちに見付からぬように大学裏手にある大型の焼却炉に持ち込んで廃棄した、朝になれば用務員はいつものようにろくに中身を確認しもしないで火をつけて燃やしてしまうだろう。皮だけの動物の剥製など跡形も残らないに違いない。
こうして成瀬壮介の身体は一見、全くこの世から消えてしまったかのように見えた。

夜が明けていつもの学校が始まり、真面目な彼が講義に顔を出さなかった時点ですぐに彼らの友人達の間から不審の声が上がり始めた。もちろん、立場として一番の親友・二ノ宮総一郎が一番早くに彼の不在を疑問視したのであるが。
体でも悪くして寝込んでいるのではという声もあった、ならば講義を欠席してでも見舞いに行こうと言い出したのはもちろん二ノ宮が最初だ。
やがて彼の姿が本当にどこにも見つけられないとなるといよいよ騒ぎになっていったのであった。
もちろん警察に真っ先に探してもらおうと言い出したのは二ノ宮であり、不安定な年頃の学生失踪など珍しくも無く本腰を入れて探そうとしなかった警察に再三食い下がったのも彼だった。
しかし何分失踪の理由が友人たちに全く思い当たらないにしても、世間一般から見れば死体が上がったわけでもなくましてや誘拐でもあったわけではないのだから当然単なる一学生のありがちな失踪と思われてもそれは仕方が無かった。それにしては彼の身の回りの荷物がそっくり残っているのが不思議であったが、だのでそのうちに成瀬の婚約者の女性も彼を探し始めて二ノ宮に話を聞きに来たりしたがまた彼女も有力な情報の一つも得られず不安な日々を送るしかなかったようだ。
もちろん、最後に成瀬と一緒にいたのが二ノ宮であることはさしたる調査が無くともわかったことだし、まして当の二ノ宮が成瀬青年の最後の足取りを積極的に周囲に話し聞かせたのだったから逆に二ノ宮には全くやましいことは無いのだと皆が簡単に信じてしまったのも無理の無いことだった。(二ノ宮は成瀬とは最後の夜に確かに一緒だったが寮生達が帰ってくる少し前にお互いの部屋に引っ込んだと当たり障りの無い証言をしていた)友人たちの間でも彼らの仲の良さは有名だったし、彼らの人柄を少しでも知っているものであれば二ノ宮がその実何かしら成瀬に対し敵意を抱いていたのではないかなどとは疑うものさえなかった。
結局、彼の足取りは一向につかめないまま、いつの間にか世間にはこの出来事は全く忘れられ、学友たちにも心に不可解な謎を残しはしたが日が経つにつれ次第に誰もが彼のことを話題にしなくなっていった。
それから数年間、二ノ宮は博士課程に進み大学の研究室に残りながら度々地下に隠した成瀬で作った人形との秘密の逢瀬を楽しんだ。

「そうして私は彼を永遠に手に入れたつもりだったんだよ」
そこまでの経緯をこの学生・佐藤に誇らしげに語り聞かせた二ノ宮教授はそこでちょっと言葉を区切ってにわかに表情を曇らせた。

一方、今まで完全に信頼して人格者であると信じていたところの我が師の血なまぐさい犯罪の過去と隠された倒錯的欲望を知らされた佐藤はただ唖然として彼の顔を見上げていた。
「しかし、最初の数年はまだよかった、だが所詮は素人の浅はかな遺体保存技術に過ぎない。次第に美しかった彼の肌は色が変わり始め、ついにはその相好までもが無残にも崩れてきてしまった。私はただただ彼に申し訳が無かった。その美しい姿を一生この世に留めてあげようと誓ったのにそれが出来なかった、私は己の不甲斐なさに無力さに絶望したよ」


やがて、その姿が全く無残なものに成り果ててしまった成瀬壮介を前にして彼は幾度も慙愧の涙に暮れた。
「どうしてなんだ成瀬君」そう言いながら生人形をかき抱いた。
ああ、君は骸になってしまってまでも僕から逃げようと言うのか?
いいや、いいや、それはきっと違う。僕の力が努力が及ばなかったんだ、だから君はこうして僕を戒めたんだ、ああ、すまなかった、君は努力家だったもの、それに見習って僕も一層精進すると今誓うよ、どうか見ていてくれたまえ。――

それからというもの博士号を取った二ノ宮は一見外面は品のいい勤勉な研究者を演じながら、その裏ではほとんど独学で死体の防腐処理技術を研究し始めた。現在ある技術のどれもが彼を満足させるような完璧なものではなかったからだ。
しかしたとえ研究の末に全く理想通りの完全無欠な防腐処理技術を施せるようになったとしても既に彼の最愛の人である成瀬壮介の身体は修復のしようも無いほどに腐り果ててしまっているというのに。そのことに二ノ宮が思い及ばなかったわけではないはずだがそれでも彼は死体保存の研究をやめようとは一度たりとも思わなかった。その心根がいかなるものだったのか恐らくは彼以外の人間には到底理解しがたいだろう。
やがて更に数年の後、この大学の生物学分野における助教授として正式に着任した彼に再びあの恐ろしい技術を使うべき転機が訪れた。

世間の背徳的な行為というのはいつの時代も繰り返し流行るものだ、そのときも未成年の少年少女の家出というのが流行った時期だった。
彼らは刹那的な享楽と若さゆえの楽観と愚かしさだけを力に、浅はかにもそれが永遠に続くものと信じ退廃的な生活を送るのを単純に「格好いい事」と思い込んでいたのだ。そうした中で少女たちの多くは自らの父親といってもおかしくない様な年嵩の男達に金銭目的で平気でその身を任せたりした。
恥を知らぬにも程がある。
しかしそんな多くの家出少女の一人を偶然拾ったのは二ノ宮にとっては僥倖だった。

そのときの二ノ宮は既に学生寮の住民ではもちろん無かった、彼らが青春を過ごしたあの学生寮は既に何年も前になくなってしまっている、それは時代の流れによるものだったが。
二ノ宮は博士課程終了後一度は大学近くのアパートに移り住んでいたがほどなくして彼は大学からはずいぶん離れた所ではあったが立派な一軒家を住居にした。
彼の両親がこの年に相次いで亡くなり、その土地とこの家と財産を受け継いだおかげで手に入れたものだがこれは彼にとって大変に嬉しいことだった。
この家を受け継いでからすぐ二ノ宮は成瀬の遺体を大学の地下から自宅へ写し運んだ、成瀬壮介を殺害してから既に十年の月日が流れていた。十年目にしてやっと成瀬の遺体は地下室の薄暗い箱の中から出ることが出来たのである。
これまでは一日のうちで大学に詰めている間の僅かな時間のみにしか成瀬に合えなかったがこうして自宅に連れ帰ったことでより多くの時間を一緒に過ごせるようになったことを二ノ宮は他意なく喜んだ。たとえ彼が既に無残な形骸を残すのみの存在になっていたとしても幾年月が流れたとしてもそれは変わることがなかった。

「ある夜のことさ、そうだなあれはもう深夜二時も回った頃だったかな?私が帰途の途中一人のどう見ても中学生くらいの少女が私の車を呼び止めたんだ、まさかタクシーなどと間違えた訳はなかろうがきっとああした少女たちは貞操観念や危機感が希薄なのだろうね。私に自分を街まで送って欲しいなんて言うんだよ、こんな時間に、ましてまったく見ず知らずに人間にね、呆れたもんだ。しかし私はこれを好機と見取ったんだね。幸い辺りには車の一台も通っておらなかったし、また当然のように人気も無かった、だから私は彼女を易々と車に乗せてあげたんだ。そして私は彼女に持ち掛けた『こんな時間に街に着いても眠るところなんてあるのかい?なんなら私の家が通り道だから泊まって行かないか?なに明日になったらちゃんと送って行ってあげよう、もちろんお小遣いもはずんであげるよ』とね、まあ断られたらそれはそれでいい、彼女は私が誰かなんて知らないんだしそうした浅ましい目的の男なんてごまんといるからね、彼女だって或いはその方が好都合なのかもしれなかったし。そうしたらまんまとその申し出に乗ってきたんだよ」

ただ少女は「自宅」と聞いて少し難色を示した。さすがに最低限の危機感は持ち合わせているようだ。
何処かのホテルの方がいいのではないの?と聞いてきたが、その方が安く済む、その分お小遣いに回してあげるよ、と二ノ宮が言うとそれでとりあえずは納得したようだ、所詮こうした少女は浅はかだ。

「私はね、それまで動物で実験してきたエンバーミングの技術をそろそろ人で試したいと丁度思っていたところだったんだ、自信はそれなりについてきたつもりだったけど動物の毛皮と人間のすべらかな皮膚とでは全く勝手が違うからね」

自宅に入るとすぐ彼女を風呂場に案内した。
そこいらの安ホテルには無い豪奢なバスルームに少女は感嘆の声を上げた。
目を丸くした少女に二ノ宮は、おなかは減ってないかい?風呂から出たら何かご馳走してあげよう、と親切に言った。
少女が驚いたのも無理は無い、これはちょっと誰が見ても意外である、まずその広さだ、そしてまるで流行の公衆浴場のような円形の美しく大きな浴槽は小柄な少女でなくとも手足をすっかり伸ばしてまだ十二分に余るほどだ。
少女は不思議であった、自宅に見知らぬ女を連れ込むくらいなのだから当然一人暮らしであろう、一人身の中年男性にこんな大きなお風呂が必要なのかしら?と、確かに入ってきたときに見たこの邸はちょっと驚くくらい立派だったけれど見たところ年数は結構いっている風情がある。
しかしこの風呂場のみは見てすぐ判ったが非常に真新しい。
色とりどりのタイルも綺麗で煌びやかで、ほの明るい電飾がまたその雰囲気を一層醸し出している。
きっとあの男はかなりの大金持ちなのだろう、道楽でこんな大きな浴室を作るくらいだもの、それでいてこうして自分と同じような少女を連れ込むのに慣れているのではないかしら?さっきから私に対してもずいぶんと優しい態度だったし、紳士な顔をしてよほどの女好きなのかもしれないわ。きっとそうだ、そうに違いない。
少女はこの分では実入りが良さそうだとその未成熟な桃色の肌を洗いながら密かにほくそえんだ。
しかし少女もこの大きな浴槽が果たして普段何の目的で使われているのかを知ったらそのおぞましさに思わず浴槽から飛び出ただろう。そこは平生、既に彼のライフワークとなった死体保存技術の研究の為に獣の死骸を洗ったりまたしかるべき処理をしたりする為に使われていたのだから。
少女が風呂から出るとそこにキチンと新しいバスローブが用意されていた。ただしそれはちゃんとクリーニング済みのものではあったが少女の華奢な体に合う大きさではなかった、恐らくはこの館の主であるあの男のものだったのだろう、とりあえず着てはみたが大きくだぶついている。
ローブとその素肌との隙間がやけに開いたそれを着ていると自分の体がとてもか弱く無防備なものに思えて、この奔放な少女にさえ妙な気恥ずかしさを覚えさせた。
少女がダイニングに向かうと二ノ宮は既にテーブルに並べられた豪華なオードブルを前にしてその手に金褐色のシャンパンを満たしたグラスをを捧げ持っていた。
ああ、そういえば君はまだ未成年だろうね?さすがにお酒は飲めないかな?そう言いながらもまるでわざと少女の自尊心を突付くようなものの言い方で誘引する。
貴方からかっているのね、わたし、こう見えてお酒は結構飲めるのよ。と少女も挑発に乗って差し出されたグラスを手にしてそれを一息に飲み干した。それから、少女と二ノ宮との間にどんな歓談が交わされたか、そしてこの男の手馴れた扱いに少女がどれほど喜悦したか。
まるで外国の映画にでも出てきそうな完璧さを持ったもてなしの数々は彼女をいたく満足させてくれたようだ。
やがて腹も満たされ酒に酔って気分をよくした少女が戯れに尋ねた。
おじさんは、ひとりでここにすんでいるのね、さみしくないの?と。
二ノ宮がハハ、と笑った、おじさんか、そうだね君からみれば僕は十分におじさんだね、いや、実は一人ではないんだよ、同居人がいるのさ。
その言葉に少女がきょとんとした。
てっきり一人暮らしだと思っていたのだったが、はて?深夜にこれほど騒いでいるのに一度も顔を見せない同居人とは何者なのか、よもや妻や母などではあるまい、家内の女性ならば男のこんな奔放を黙って許したりはしないだろう。
しかし二ノ宮は少女の不思議そうな表情の問いかけには答えず優しげな表情を崩さずに話題を反らした。
そうだ、ちょっと変わった珍しいものを見せてあげようか?僕の趣味でね、とても美しいこの世に二つとない美術品を所有しているのだよ、宝石?いやいや、そんな俗っぽい物ではないよ、それより数倍は美しい貴重なものさ、来てご覧、さあ、遠慮はいらないよ、どっちにしても寝室は二階にある、ついでに見せてあげよう。
少女の手を引いてこの邸の二階へと登った。
もともとこの男に貞操を売るつもりでいた少女は何なく案内に従った。
いや、それだけではなく少女はこの男の不思議な雰囲気を初めこそ胡乱じたものの、彼の十分に端整な顔と巧みな話術はいまや彼女に今夜初めて知り合った人物とは思えない昔からの馴染みの恋人であるような気安さをも覚えさせるに至っていた。謎めいたところを持つ人物と言うのは概して人を惹き付けずにはおられないものだ。
さあ。と背中を促されて入った部屋は明かりの一つもついておらず深々とした闇が広がっていた。
嫌だおじさん、何にも見えないじゃない、怖がらせないで。
少女が甘えたように二ノ宮の腕にすがりつく。狙い済ましたように二ノ宮が電灯のスイッチに手を伸ばした。
そのとき少女は何を見たのか。
彼の言う美しい貴重な美術品とは彼女を豪奢な浴室より感嘆させるものだったのか?しかし彼女の反応は真逆のものであった、電灯の明かりに照らし出されたそれは彼女の目には到底美しいものには見えなかった。少女の甲高い悲鳴が部屋の空気を振動させた。
二ノ宮が美しいものといったそれはなんであろう、そう、それはアンティーク調の椅子に大切に座らされた成瀬壮介の遺体の成れの果ての姿であった。
悲鳴を上げて本能的にあとじさろうとした少女の腕を二ノ宮は一見優しげに、その実かなりの力で持って捕らまえていた。そもそも彼の腕を初めに取っていたのは少女の方だ。
一旦悲鳴を上げてすぐ少女が思ったのはそれは恐らく巧妙に出来た作り物でこの男が自分の驚く顔を見たがって敢えてこんな不気味な演出をしでかしたのだろうということだった。
いやだ、おじさん、こんな気味の悪い作り物をみせたりして怒るわよ、わたしを驚かせて楽しかったのでしょう?
拗ねて彼の手を振り払おうとする少女を掴まえたままで相変わらずの笑顔を崩さずに彼は少女に告げた。
なんだって?怒ることは無いだろうとても美しいものだったじゃないか、それとも君には『彼』の美しさが判らないというのかい?それは気の毒なことだ。あれはね僕がこの手で作った生人形さ。作り物だって?ハハハ、君はあれを人形だと思ったのかい?違うよ、あれは本当に人間なんだ。生きた人間をこの僕が殺して作ったのさ、この邸の同居人であり僕のこの世で最も大切な人なのさ、え、よく見るんだ、彼のどこが気味の悪い作り物だというんだ?あんなにも美しいじゃないか、姿がたとえ見る影もなく崩れてしまっていても僕には彼はこの世で最も美しい人なんだ、僕の美しい最愛の剥製人形だ、おや?君逃げようというのか?逃がしはしないよ、君は僕に買われたんだろう?約束通りお小遣いなら好きなだけあげようじゃないか、しかしそれを使う機会があるかどうかまでは保証の限りでは無かったんだがね。
二ノ宮の狂気じみた話の途中でもう少女は涙目になって必死に彼の捕縛を解こうと必死に泣きながら暴れたがか弱い少女の腕で大人の男の力に敵おう筈も無くやがて彼女は床に捩じ伏せられてしまったのだった。
いや、怖い、貴方私を一体どうするつもりなの?お家に帰して、誰にも訴え出たりしないわ、約束するからお願い、離して、離してったら。
無様に床に押し付けられもがく少女の二の腕に突然チクッとした痛みが走った、ハッとして少女が振り見ると、どこから取り出したのか、二ノ宮が彼女の腕に何か液体の入った注射を突き刺していたのが目に入った。少女は恐怖に打ち震えた。
―パパ、ママ、助けて、嫌。
悲痛な泣き声を最後に、あっという間に昏倒に落ちた少女がしかし再び目覚める朝は一生来なかったのである。
初めのそれはただの麻酔薬であった。だがぐったりとなって伏した少女の腕に非情にも2本目の注射がすぐに打たれた。
それこそが恐ろしい毒薬であり防腐液だった、彼女の命を眠りに落としたまま永遠に引上げる事無く葬った悪魔の妙薬であったのだ。こうして二ノ宮はこれまで動物でしか試せなかった現在の防腐処理技術と独学で得た最高の技術との応用を人間の、それも若く美しい少女の肌で試せる機会が訪れたのであった。
少女が眠ったまま絶命したのを確認すると彼女を再びあの感嘆せしめたところの浴室に連れて行きさっさと裸にして、彼の邪ではあったが賢明な努力の結果たる死体保存技術を少女に施したのであった。

それからというもの、二ノ宮はまるでそれが第二の天職でもあるかのように、何年かに一度、浮浪の徒や関連のない行きずりの女、はたまた仕事にあぶれた若者などをうまうまと捕まえては研究に研究を重ねていった。

そしてついには究極の彼が望んだ形の剥製人形を完成させるに至ったのであった。
季節はそんな折のことだった、既に当大学の名誉教授にまで出世していた二ノ宮はまるで申し合わせたかのように、かつての成瀬青年に生き写しの男、佐藤秀一を彼の入学式のその日に見つけたのであった。

二ノ宮にとってそれはあたかも千年に一度の奇跡であり天からの授かりものだった。
成瀬壮介が再び生まれ変わって我が元に戻ってきてくれた。
彼は初め本当にそんな風にさえ信じた。
だが佐藤は勿論成瀬とは全くの別人であり顔形がいくら偶然似ていようとその内面や細かな仕種や話し方までもが同じである筈は無い。
例え同じ腹から産まれた双生児であったとしてもお互いを知ることなく別の育ち方をすればおそらくは同じ人間にはならないだろう。
最初こそ、彼こそが成瀬の再来であると信じていた二ノ宮だったが彼を観察する内に程なくそうした相違点に気が付いた。
それでも当時はまだそのことをときに幻滅し不満を覚えながらもこの幸運な邂逅に感謝して些細な点には目をつぶろうと勤めた、成瀬の死から20余年あまり、二ノ宮は死物を相手にその亡き人の面影を何より大事にしてきたのだ。
こと成瀬の遺体が目に見えて傷み始めた頃、幾度もその身体の修復を試みては失敗を繰り返し、己の無力さ不甲斐なさを呪い、ついには見も知らぬ罪亡き人々をの命を奪ってまで彼の理想を極めた完全なる遺体保存技術を会得せんと勤めたのであったのだから。
そうした、人にはおぞましく覚える努力を重ねても再び戻ることの無い恋人の朽ちた肉体が、ここに来てまるで御伽噺の魔法のように瑞々しく再生し、新たな生命を得て甦ったのだから本来ならばそのことをただ感謝すべきであった。
例え別人であってもかつての想い人の面影を持つ若者が今を生きていることに喜びを覚え、よしもっと欲深くあればこの恋人の再来に生きて側にいてもらうことを望むまでがまだ人として許される限界であっただろうに。
(それ以前に、既に彼は人として行ってはならない罪業を犯しているのであったが)

いつのまに彼の中でこのような恐ろしい錯誤が起きたのだろう。
二ノ宮はいつからか本来志した当初の目的を失いつつあった。
すなわち彼は、誤って死に至らしめてしまった恋人の亡骸をせめて生前の姿により近く保つことを本来の目的としていた筈であったのに、その目的に腐心するあまりいつのまにか目的よりその過程にいうにいわれぬ快感を覚えるようになってしまっていたのだ。
つまり活き活きとした命に溢れる生きた人間より死物と化した肉人形の方にこそたとえようもない魅力を感じるようになっていたのである。
このことは二ノ宮に見初められた佐藤にとって最も不幸な事だった。
折角、他人の空似とは言えども瓜二つの人間に、それがどれほど低い可能性であったろう、再び合い見えようもない恋人の生き生きとしたうつくしい姿を見ることが叶ったというのに、いつしか佐藤秀一を死物と化した生人形にしたいと心に思い始めていたのであった。
その人の生命を人生を愛おしむどころか同じ過ちを繰り返そうとしたのはすでに彼がその魂までも魔道に落ちきった何よりの証拠ではなかっただろうか。
しかし二ノ宮はこの鬼畜と化した自らの心を表面上では認めていなかった。
こうした邪悪な欲望を覚えるのも、彼はそれが自らの歪んだ情欲がなせる業ではなく、佐藤秀一が成瀬壮介の姿をしながら全く異なる中身を持っている所為だとその責任を転化し始めたのだ、彼が成瀬でないことがまるで何よりの罪業でもあるかのように思い始めたのだ。
次第に二ノ宮の中で佐藤への感情は追慕の念からある種の憎しみに変わっていった。
あるとき、彼が友人達とこの年頃の男子が好む色沙汰めいた話をしていたときのことだった、偶然にもそれを立ち聞きしまった二ノ宮は怒りを覚えた。成瀬はそんな下世話な話題は口にしなかった、と。
またあるときは快活な笑い声を立てている佐藤をみて思った、彼はあんな品の無い笑い方はしなかった、と。
何故違うのだ、なぜお前は彼ではないのだ。
佐藤の性格が現代の若者そのものであったことがなにより二ノ宮の神経に障った。
どう考えてもそれは全く一方的な逆恨みに違いなかった。
だが二ノ宮は認めなかった、あれは成瀬壮介ではない彼の皮を被った別の人間である、いきおい佐藤が成瀬の美しい姿を簒奪してこの世に産まれ出でたのだとさえ錯覚した。
思えば成瀬の遺体が朽ち始めた頃と彼が産まれたのはほぼ同時期ではなかったか?ときとしてそんな風にさえ思った。
いつか彼が成瀬の生体を解体したときに夢見た、彼の皮膚を被って恍惚に浸るあの幻想。
もしや今あれと同じことが起きているのではないだろうか?むき出しの筋肉と穴だけの鼻、眼球がそのまま収まった眼孔、常に笑っているかのような剥き出しの歯、そんな醜塊で不気味な生き物がズリズリと無様に地を這って来る。
そして成瀬壮介の身体に、まず手や足を通してやがて顔まで潜り込み、その生き物はやがて先ほどの虫のような動きとはうって変わって力強くむっくりと立ち上がるとなんとしたことか美しい彼の姿そのままになってしまった。
先ほどの醜い肉だるまが佐藤秀一で、そうして彼はあの姿になりきったのだ。
それは謂れの無い妄想に違いなかった、だが彼の中ではある種の真実にちかく存在したはずの出来事のように思えた。
こうなれば彼の猟奇を止めるものは何も無い。

佐藤秀一を殺し、価値の無い中身をすっかり取り去ってあの器を本来の持ち主に返してやるのだと。

彼は虎視耽々とその機会を狙っていた。
幸いにも(佐藤にとっては不運にも)彼が自分の教え子として常に周囲にいたことが今度の好機に繋がった、世間では彼は音に聞く人格者として通っていたし表面上は教え子として佐藤を可愛がってやっていた、もちろん全くの芝居という訳では無かったが。
そうした取り繕いが功を奏して今度の誘拐のきっかけになった深夜にまで及ぶ学会の発表の準備を進んで手伝うと言い出したのは佐藤の方からであった。
彼は本心から自分を師と仰いで慕っているらしかった、そうした時折見せる勤勉さ懐っこさはかつての成瀬を思い起こさせ時には懐慕を喚起したりもしたが今や生人より死人を愛する倒錯性愛者に成り果てた二ノ宮総一郎の決心は揺るがなかった。
そしてそれは安々と成功し、こうして彼の根城に佐藤秀一を虜にすることが出来たのであった。

「君がいなくなって誰が探しにくるかな?君の親兄弟かい?それとも友人の誰かかい?心配しなくともいいよ、なに、君のような年頃の若者が周囲にこれといって思い当たる理由無く突然消えるなんてことはよくあることさ。私がこの大学に身を置いてずいぶんになるが数年のうちに何度かはそういうことがあったものだよ、大抵は自らの意志で失踪したものだから渋々ながらも皆納得していずれ忘れていくんだ。君が女子生徒や或いは幼い子供だったなら真剣に探してくれるかもしれないけどね」

ここまでの話を聞いてさすがの佐藤も温厚な人格者であると信じきっていた所のこの男の本性と恐ろしい目的を悟らずにはおられなかった。
彼は自分を殺す気なのだ、そしてそれは剥製の人形にしてしまうというこのうえなくおぞましい目的の為に。
とても信じられないような告白だった、こんなことが自分の身に起こるなんてこれまで想像すらし得なかった。
あまりの衝撃に我知らず爪が拳に食い込むほどに手を握り締めていた、嫌な汗が背中を伝い肩や腕が小刻みに震える。
ものを言うことすら出来なかった、一言でも口を開けばそれは情けなく吃ってまともな言葉になりそうにも無かったからだ。

「さて、それじゃ早速、君を剥製にしてしまう前に少し準備にかかるとしようか」
そう言うなり二ノ宮は部屋の壁際に置いてあった外科手術で見るような銀のカートに歩み寄りその上に乗せられていたあるものを手に取った。
佐藤はそれを見た瞬間恐怖に全身を引き攣らせた。
彼が手にしていたのは注射器である、それに薬品の入った小瓶である。
それは彼の告白話に出てきた哀れな犠牲者達に施したあの毒液だろうか?だとしたら自分は文字通り手も足もでないまま今ここで殺されるのだろうか。
佐藤は何とかこの縄目を解こうと必死に足掻いた、だがこのような厳重な縛り方をされては解くどころか縄は緩む気配すら見られない。
「教授!やめてください、剥製だなんてそんな…、何を馬鹿なことを、貴方は正気ですか!?」
恐怖に耐えかねた佐藤が悲鳴に近い声を上げた。
「もちろん正気だとも、さあ、いい子だ、そう暴れないでくれないか?そんなに動いては針が折れてしまうよ」
二ノ宮は穏かな笑顔をそれでも崩さず慣れた手つきで小瓶の中の液体を注射器に吸い上げながら彼の必死の懇願をまるで駄々っ子をあやすかのように語りかけるのだった。
佐藤の焦りは頂点に達し無駄だとしても助けを呼ばずには居れなかった。
「誰か!助けてくれ!誰か!!」
しかし佐藤はここに来るまで眠らされていたので少しも知らなかったがここは二ノ宮の邸宅でそれこそうら寂しい郊外の小さな森の中にポツンと点在する家なのだった、ちょっとやそっとの叫び声では恐らくどこにも届かなかっただろう。それに加え思慮深い二ノ宮は念には念をとばかりただでさえ声の漏れぬ防音処理の施されたこの部屋を選んでこの凶行に及んだのだ。
自由の利く僅かな範囲でそれでも必死に針など刺されてたまるものかと暴れ狂う佐藤の肩を二ノ宮は見た目には思い及ばぬほどの強い力で押さえつけ、とうとうその二の腕にシャツの上から針の切っ先を突き刺して素早く中身を彼の血管内に送り込んでしまった。
液体を注入された場所から血の流れに沿って血管痛を感じたと思った次の瞬間にはふっと掻き消える様に佐藤の意識は闇に落ちていた。
このあと二ノ宮は何人もの命を奪ったかの防腐液を彼に注射するのであろうか?

ところで話は少し逸れるようだが何故二ノ宮が被害者を一度眠らせた上で毒殺するという二度手間を踏むのか?
これには少し理由がある、概して毒による殺害はどんなに即効性の薬であったとしても被害者に少なからず必ず苦しみを味あわせることになる。そうなると苦しみの果てに絶命した被害者の相好は生前の苦しみを張り付けたままとても美しいとは言い難いものになるのだ。
それを元通りにするのには彼が体験した限り結構な努力が要るものだ(これまでの犠牲者のうち何人かに最初から直接毒薬を投与して試した結果である)。まして彼がこの死人人形を作るのに最も適していると選んだ防腐剤という名の毒薬はそのまま投与するのであれば被害者に惨い苦しみを与えるものだった、だからこそより深い混沌に陥れてからあらためて毒殺に至るという手間をかける訳である。もちろん被害者にかけた慈悲などではなく自分の都合によるものではあったが同じ殺されるのであればこの方がよほど被害者たちにとっては幸せであっただろう。
それではいよいよ佐藤秀一にも同じ末路が待ち構えているのかと思われたことだろうが二ノ宮のとった行動はこれまでと違っていた。
深い混沌に落ちきった佐藤の縄目を解き、その体を担ぎ上げ彼をどこかに運ぼうとしている。
「佐藤君、私の厚意を分かってくれ給えよ、あんなにも固く縄で束縛したのは何も君の自由を奪うためだけではなかったんだよ、縄目というのはね、下手に緩く縛るより頑丈にした方が痣や擦り傷が残ったりしないものなんだ、多少の痣や傷ならば死んだ後でも私なら完全に修復できるが君の身体は成瀬君に捧げる大切なものだからね、無駄に傷つける訳には行かない。今までの客人よりよほど大事に大事に扱ってあげるからね」
まるで愛しい恋人に囁きかける睦言のような甘さを帯びた言い回しで意識不明の彼を運びながらある場所に連れて行った。
彼をつれて足を運んだのはかつて犠牲となった家出少女を感嘆せしめ、そのほかの犠牲者達も一様に驚いたはずのこの浴室だった。おぞましい肉人形作製の作業室となったこの風呂場に一体何の用があるのだろう。
彼の腹部を切裂いてこれまでのような処置を加えるなら佐藤秀一は既に絶命していてしかるべきだが彼は眠らされているだけである。
よもや二ノ宮がここに至って突然慈悲を覚え彼を殺さずにおく心算でもあるのか?
はたまた嘗て成瀬壮介を不慮の出来事とはいえ生きたまま解剖してしまったあの悪夢を再現しようとでも言うのか?
いやこれは果たしてそうではない。
佐藤を浴室に運び入れた二ノ宮はまずは彼の服を脱がせ始めた。
これからこの世でただ一人のかけがえのない最愛の人であった成瀬壮介を以前の(あくまで生前の、ではなく)きれいな姿に戻してやる為に、もう少しこの佐藤秀一をかつての成瀬の外見により近く整える必要があった。
二ノ宮曰くただでさえ顔かたちは似ていたのではあるが。
そんなことは彼の死後でも出来そうなものだったが二ノ宮にはある思惑があった。
それは彼の心の問題であって傍目には大して需要とも思われなかったが彼にとっては重要なある「儀式」の為だった。


どれくらいの時間が経ったのか見当も付かない、だが、なんと幸運なことだろう、佐藤秀一は再び生きて目を覚ますことが出来たのだ。
だが麻酔薬の所為なのか目が覚めても頭はスッキリとし切らぬし、体は泥沼を這いずっているかのようにように重い。
ぼんやりとした意識の中でこれまでのことを思い出した、そして初め彼はあれが全て夢であったのかと考えもした。
だが夢でないことにはここがどこともつかぬまったくの暗闇だった上にこの尋常ならざる暗さがどうにも自分の部屋などとは雰囲気が違いすぎることだった。
それに麻酔の影響のみならずやはり椅子に座らされた状態で手足を束縛されているらしく体が動かない。
また口には猿轡のようなものを咬まされているようである、ためしに声を出してみたが情けないくぐもった響きにしかならなかった。
―おれは本当に生きているのだろうか?それともここが冥府というやつなのかな?
彼が一瞬そう疑ったのも無理はない。
あれほどの色濃くあくどい夢を見た後に目が覚めて部屋が全くの無明の闇に閉ざされていたら誰しもひょっとしたら悪夢が冷め切っていないのかそれとも本当に地獄にでも落ちてしまったのかと思うだろう。
だがどうも次第にはっきりとしてきたこの暖かい体と感覚からしてやはり自分は紛れもなく生きているようである。
眠らされる前の修羅場を思い起こして身震いした、幸いにもどうやらこれまでの犠牲者とは違い眠らされたまま殺されるというようなことは無かったらしいが、だがこれまでのことが夢ではない証拠に、こうしていまだ自分はかの善人面した悪魔の虜のままなのだ。
それに、ちょっと伝えずらい事柄だけど、なにか体の細部にごく些細な違和感を覚えるように思うのだ。
その違和感原因を探ってみようと彼は体中に神経をめぐらせたした。
なんだろう?どうも先ほどまで恐怖に焦燥に冷や汗を流していたはずの自分の肌がやけにサラサラとすべる感じだ。
着ている服からも真新しい繊維特有の少し気取った匂いと馴染まない硬さがあるようだ。あるいは二ノ宮が身体を洗い流して別の着衣に着替えさせたのかもしれない。
見えはしないが何となく手術着のようなつくりの服だろうか?膝丈程のそれにズボンを穿いていないので足がヒンヤリした。
それにしても眠っている間に自分の体を勝手に弄られるなどなんて不愉快なのだろう。
さらに、これは彼自身もさすがに気がつかなかったが髪形が少々変わっていた、恐らくは生前の成瀬の髪形に似せて切り整えられたのであろう。
もう一つ気に触ることといえばこの部屋はただ作ったような仰々しい闇に包まれているだけでなくひどくひんやりとしていて湿度が高いとも思われぬのに一種カビ臭い、それに甘ったるいような鼻を突くようななんとも形容しがたい薬品臭に満ちている。

そのとき全くの闇だったこの部屋に薄明かりが差した、はっとして咄嗟に光の差す背後をこればかりは自由な首を捻って振り見た。
「おはよう佐藤君、よく眠れたかい?」
どうやら彼の背後にあるドアから二ノ宮が入ってきたらしかった、そちらに注意を奪われてこのとき彼は自分の目の前にあるものに気がつかなかった。
「暗くて分からないだろうけど今は朝だよ、残念だけどもう大学に顔を出さなければいけない時間だ、夕べは結局君の身形を整えるだけで夜が明けてしまったけど帰ってきたら作業に取り掛からせてもらうよ、それまで“彼”とゆっくりしていてくれ給え」
限界まで首を捻って背後の敵の姿を凝視していた佐藤は二ノ宮が顎でしゃくって指し示した“彼”という「もの」を振り見た、ついに見てしまった。
佐藤と僅か1.5メートルほどしか離れていない距離にそれはあった。
佐藤は思わず猿轡のしたから上げられるだけの声で叫んだ。
かれの正面に据えられた椅子、その上に座っている人型、その見るもおぞましき醜怪極まる死人の成れの果て。
これが「成瀬壮介」だった。
彼の言った通りその姿は二目と見れぬほどにむごたらしく崩れきっていた。
それが部屋の扉を二ノ宮が開いたために入ってきたその幽明かりで照らし出されている。薄い光が緑色とも灰色ともつかぬような色に変色した皮膚を照らし一層この死人人形を不気味に見せた。こんなおぞましいものとこの近さで、佐藤は何時間そうとは知らずに差し向かっていたのだろうか。物言わぬ死物に成り果てた人間の体というものは命ある体とはまるで違う、闇の中なら闇に紛れてしまうし、そこにある事を知らなければ勿論動かぬので気がつきもしないのだ、いうなれば全くの「物」である。
生きている人の体は闇の中でもそうと判る存在感や熱を放っているし肌も光るものなのだ。
佐藤は遺体から思わず顔をそむけ固く目を閉じた。とても長く鑑賞に耐えられるものではない。
そんな有様の佐藤の姿をさも楽しそうに見やりながら二ノ宮が思わせぶりに歩み寄ってきた、その手には古めかしい蜀台が握られている。彼はただでさえ縛られて動けない佐藤から周到にもわざと離れた、それでいて成瀬の姿を照らし出せる位置に小さな木の台を置き、その上に蜀台を添えて蝋燭に火をともした。
そして佐藤の後ろに歩み寄ると背けられた顔を無理やり両手で掴んで容赦のない力で前を向かせた。
「さあ、よく見るんだ」
だが佐藤は目を開けなかった、喉の奥から堪えようとしてもうめき声が漏れる。
「改めて君に紹介するよ、彼が成瀬壮介君だ、ぜひ君に逢わせておきたかったんだ」
そういわれてまさか素直に死骸に挨拶をしようとしたわけではなかったが反射的に薄目を開けて睫の奥から再びそれを見た。
ほとんど骨格に張り付いただけのような薄く奇怪な色の肌、剥き出しになった歯とただの暗い穴となった目。佐藤は再び目を固く閉じた。
情けないことだが恐れに涙が溢れてきてどうしようもなかった。
「どうだい成瀬君気に入ったかい?昔の君に生き写しだろう?今に待っていてくれよ、今夜私が戻ったらこの彼の中身をすっかり取り去ってその空になった中に君の骨を皮を詰めてあげるんだ、どうだい?素敵じゃないか、これで君は内も外も完全に君になる、君は再び美しい姿を取り戻せるんだ。ねえ佐藤君、君も素敵だと思わないか?よく考えたまえ君だってその若くうつくしい姿をそのままに永遠に残せるんじゃないか、嫌だと言ってももう私は決めてしまったんだよ。こんな偶然が廻って来るなんて私はなんとついているのだろうね、君は僕と成瀬君の前に現れてくれた奇跡だ、君はあんまりにも成瀬君に似すぎていたんだよハハハ」
二ノ宮はこの人形と人間に交互に話しかけながら己の言葉に興奮したのか次第に感極まって両手で掴み込んだ佐藤の顔や髪をかき回す様にして撫でた。
「おや?泣いているのかね?どうしてどうして何一つ苦しいことなんかありはしない、眠ったままで天国さ。少しも怖くないよ、さあ、私は大学へ行かなければならない、その間もうすぐ君と一つになる成瀬君とよく知り合っていてくれ給えよ、全くの他人よりその方がきっと一層君は彼になるだろうからね。その為にわざわざここに連れて来たのだから」
つまりこれが二ノ宮流の「儀式」というわけなのだろう。
「そうそう、ここには他に沢山の剥製たちがいるから淋しくないよ。動物だけじゃない、ホラあそこの壁際を見たまえ、暗くてよく見えないかい?右から順に六人いるだろう、彼らは人間でみんな君の為に犠牲になってくれた人たちだ、君を完全な姿で残せるよう実験台になってくれた恩人たちだよ。この蝋燭はここにおいて置くよ、私が帰るまでにはとっくに燃え尽きてしまうだろうけど光が消えるまでの間彼らとも仲良くなってくれ給え、それじゃあ行ってくるよ」
二ノ宮はまるで愛妻に出掛けの挨拶でもするかのように陽気に気取って言うとツカツカと部屋を出て行ってしまった。
彼が出て行ってすぐ鍵が閉ざされ鍵をかける音と共に重い閂をもかけるような音がした。
まともな声が出せたならさだめし佐藤はかの殺人鬼にでさえ「置いて行かないでくれ」と言いたかっただろう、彼はほの暗い蝋燭の明かりと死人達とだけでこの密室の墓室に閉じ込められてしまったのだ。この世にも不気味な空間の中で命あるのは彼ただ一人。
佐藤は長いこと相変わらず目を固く閉ざしたまま、ただただこの恐ろしい状況に怯え震えて泣くことしか出来なかった。
まるで生きたまま埋葬されでもしたかのような気分だった、それに輪をかけて恐ろしいのは死骸に囲まれているこの状況だ。
これほどの恐怖が世にあるだろうか?死人と差し向かいながら身動き一つとれず、ともすれば死人たちが立ち上がって襲い掛かってくる妄想に何度もとらわれる。この部屋に充満する臭いも忌わしい、これは保存の為に使った薬品や死体そのものから発せられている臭いであるのだろう、そう考えるとまともにそれを肺に入れるのでさえ苦痛だ。そして灯りも闇も彼を脅かす要素でしかない。灯りがあって目を開けば嫌でも目の前の死骸を目にしてしまうしやがて蝋燭が尽きて闇に閉ざされればそれこそ人が本能的に恐れる何も見えぬことの恐怖に落とされるのである。そして生きている人間が再び背後の扉を開けてくれるとしたらそれはまず間違いなく自分を殺害せんとするかの殺人鬼なのだ。
彼は本当に気が狂ってしまうかと思われた。
眼を閉じてさえいればこの世のものならざる妄想に囚われ目を開ければ入ってくるのは常世の悪夢だ。
だが、いかなる恐怖の中でひとしきり絶望に落ちた後でも人間の生存本能は不思議と働くものだ、数多の死体と共に霊廟に閉じ込められたも同然でそれこそ髪が真っ白になってしまうほどの恐怖を味わいながら彼はなんとか助かる道は無いものかと頭の片隅で思案し始めた。
そしてとうとう彼は意を決して目を開けたのである、それはただ偏に生存の道を探すためだけではなく、眼を閉じていることですら怖くあったからでもあるが。
そのとき彼は外国の都市伝説にある墓場で木の枝か柵かに服のすそを引っ張られてショック死した少女の話を思い出していた、自分も今この瞬間誰かに肩でも叩かれでもしたらその恐怖で死んでしまうのではないかと思った。
佐藤はこわごわながら目の前の死人に目をやった。自分に覚悟を決めさせるためにも先ずは「それ」の足元から見ていくことにした。この死体は真新しい背広を着せられている。
この墓場の陰惨な雰囲気には似つかないなかなか仕立ての良さそうなきれいな服だ、かの二ノ宮がこの肉人形に対してままごとのように優しい言葉をかけながら新しい服を着せてやっている図が一瞬頭をよぎった、なんとも滑稽でありおぞましい。きれいに磨かれた靴も履いている。そして、手が、見えた、その手はほとんど骨だった、骨に変色した薄い皮膚が爪が乾いて張り付いてる。佐藤はしばらくその手を見つめていた、すこしでも耐性をつける為だ、そしてまた徐々に目線を上げてついにその顔を見た。
これがかの成瀬壮介か。二ノ宮の言うところの自分に「生き写し」であったはずの顔は見る影も無い、やはりこれも骸骨同然だ、僅かな空気の流れでユラユラと揺らめく蝋燭の明かりの中でその口が物を言うように微かに動いて見えるのがさも不気味であった。
だがその体には見てすぐそれと判る奇妙な点が見受けられた、肉は乾いて不気味な色の干し肉になってしまっているもののその表面だけがやけにテラテラと光る、おそらくそれは二ノ宮が恋人の死体の崩れ行くのを何とか防ごうとして樹脂なりなんなりを幾重にも塗りつけたからだろう、それにこの木乃伊と化した死体に全くそぐわぬ艶やかで豊潤な黒髪である、それは本来ならば頭皮が枯れるにしたがって抜け落ちてしかるべきだがそれをどうして食い止めたのか、あるいは再び植えつけたのか鬘のように被せたのか、なるほど、彼の腐心の努力が認められる。こればかりは生きている人間と変わらない様に見えた。
だがやはり見ていて気分のいいものでは到底無い、それでもこの状況を良く把握し、打開策を練らなければ自分は助からないのだ、生来出来の悪い方ではなかった彼の頭はいまや恐怖に打ち勝とうと必死で働いていた。
蝋燭の長さは既に10cm程しかない、尤も元の長さがどれくらいあったのかは見てはいなかったがこれが燃え尽きるまでに何かの発見をしなければ自分に明日の命は無い、最終的に見つけたものが「絶望」であったとしても探さない訳には行かないのだ。
部屋の奥の壁際を見た、だいぶ闇に目が慣れてきたのだろう、最初はただの黒い人影でしかなかったそれだがこの貧しい蝋燭の灯り一本でも彼らの姿をもう少しよく見ることができるようになっていた。
例の6名の犠牲者たちはみな簡易ベッドの様なものに上半身を起こした状態で置かれていた。
作製順に並んでいるのかどうかはわからないがとにかく一番右のが一番古く、恐らく女性だろう、比較的生者に近い姿をしてはいるが肌の色は生きている人間のそれでは無い、佐藤の目には緑色に見えた、やはり目はただの空洞になっていて唇が後退し恨めしげに歯をむき出させている。着せられた可愛らしい白のネグリジェとこれも上手い具合に残された長い髪とが彼女の性別を判断させるのに役に立った。その隣は年齢は不明だが恐らくは男性である、目の前の成瀬ほど立派な物ではないにせよ整った黒い背広を着ているからである、ただおかしいのはその顔だ、全く、これがこんな恐ろしい現実の事態でなかったら佐藤とて笑い出していただろう、まるで子供が遊びで造ったような不細工な人形なのだ、でこぼことした粘土細工の上に肌色を塗りたくって目や口を絵の具で描いた、そんな風にしか見えない。まったく酷い出来だ。そしてその隣は…恐らく老人だろう白髪交じりの髪がそれと判る、顔色は酷く悪かったがこれはまるでただ眠っているようにしか見えない、敵を褒めるのもおかしいがなかなか良く出来ている。
返ってその隣の恰幅のいい中年女性の方が出来は悪い、まるで地獄で苦しみを味わっている亡者のようにカッと口を開き、天を仰いでいる、その肌は不自然なほど青白くはあるがまだ比較的綺麗な方だ、しかしあの苦悶の形相は何とかならなかったのだろうか、見るに耐えない。その隣は40代くらいの男性だ、一目見てそれとわかるからには二ノ宮のエンバーミング技術が飛躍的に向上しているからだろう、これは目を開けていて、恐らくは義眼だろうが、皮膚の色は白すぎたが今にもヒョイと顔を上げてこちらに何気なく挨拶などをしかけてきそうでさえある。更に隣には裸体の若い女性がいた、恐らくはこれが一番新しい犠牲者なのではないだろうか。そのみずみずしい肌、微笑を浮かべた美しい顔…触れたら柔らかくさえあるのではないだろうかと思われるほどすべらかで豊満な肉体。こんな状況におかれていてもその異性の魅力に溢れる体には思わず魅入ってしまうほどだ。
この技術に到達してやっと二ノ宮は佐藤の誘拐を実行に移したのだろう。これならばきっと自分を今のままの姿で永久に残せると自信を持ったに違いない。しかし二ノ宮にとってはこれらの人々は単なる実験台に過ぎない、本来の目的は自分なのであって定めし今頃の二ノ宮は今夜こそ念願だった成瀬の新しい体を手に入れてやれるのだと内心浮かれていることだろう。
考えただけでも憎らしい。

蝋燭の長さがあと3センチほどにまで減った。
さいぜんから数々の人間や動物の剥製を見たくも無いのに眺め、部屋にあるものを観察したがどれも手が届かない上に役に立ちそうにない。
ではこの部屋の窓は?いや、そもそも窓など無い、しかし適度な乾燥と低温を与え続ける為に空調システムのようなものが天井に見受けられうる。それだけだ。それに先ずは縄目を解く方法だ、いくら力任せに引っ張って見てもどういう塩梅かビクともしない、ならあの蝋燭の火をつかって焼ききってはどうか?そもそも二ノ宮はそんな愚かな男ではない。やはり椅子自体が地面に縫い止められているのでたとえもう少し自由が利いたとても火の側に近付くことすら叶わぬのだ。
そうこうしているうちにやがてまた絶望に囚われそうになった佐藤が苛立って畜生!とばかりに椅子にくくられた足を床に踏ん張って椅子全体を引っ張り上げるように揺すった。
そのときミシと軋む音が聞こえた気がした、佐藤はハッとなった、もしかしたら、或いは。
一縷の望みを掛けてもう一度先ほどと同じくらいのありったけの力でもって椅子を全身で持ち上げた、またかすかにミシミシと軋みが密着した椅子から体に直接伝わってきた。
やはりそうだ、頑丈に打ち付けられていたはずの椅子のどこかが佐藤のあらん限りの力で僅かずつ壊れているのだ。
これが火事場のなんとやらかもしれない。
この椅子からさえ解き放たれればまだチャンスはある、佐藤は何度も何度も同じ行動を繰り返し椅子と我が身を持ち上げた、括られた縄が必要以上に手足に食い込んでそれこそ痣では済まなくなっていたがそんな痛みなど最早感じる余裕は無かった。
とうとう何度目かに床に固く固定されていた椅子の後ろ足がその効力を失い持ち上がった。
もう一度だ、今度こそ全身の力を出し切らんばかりに身を持ち上げた。
するとばきばきと木が割れる音がしてついに金属板で固定されていた椅子自体がその床から完全に離れたのだ、勢い佐藤はそのまま椅子と共に前倒しに倒れた。すぐ近くにあった成瀬の脚を頬が掠めた。
佐藤はしばらく倒れたまま荒い息をついていた、だがやった、これで一歩自由になった。
あとはこの頑丈な縄だ。少し呼吸が整うと佐藤は不自由な身を捩ってうつぶせになり、その土下座のような姿勢からつま先だけを頼りに反動をつけて椅子を立て直そうとした。のたくる様が芋虫の様で情けなかったが致し方ない。
何度目かにやっと椅子本来の座しかたに戻った、この状態からやはり足先と全身の反動で重い椅子を引き摺って僅かずつ前進した。目指しているのは蝋燭の火だ。
佐藤が元いた位置から蝋燭のある小さな台までやはり2メートルも無かったがここまでたどり着くのにどれだけ苦労しただろう。
幸い、この蜀台を置いた台は小さいだけでなく背も低かったので丁度佐藤が座らされた椅子の背凭れ後ろに括られた彼の腕と同じくらいの位置にあった。蝋燭の長さはあと一センチを切っていた、炎も小さくなり蝋は蕩けて蜀台の受けの部分を満たし、下手をしたらその炎を戴く芯を液化した蝋の中に飲み込んでしまいそうだ。
佐藤は蜀台の近くまで来るとまた身を捩って椅子の方向を変え、その炎に背凭れの後ろに拘束された手の縄を焼くように炎に近づいた。
頼りなくなった炎が縄を焼き始めた、不規則に揺れる炎は縄だけでなく佐藤の肌をも焼いたがそんな痛みに関わってはいられない。猿轡を噛締めて直に肌を炙られる熱さと痛みに耐えた。
そして程なくブツという音がして縄が一本切れた。
それを期に後ろ手に組まれた腕を引いて捻ってついに腕の縛めを解いたのだ。
久々に完全に自由になった手で今度は足の縄の結び目を解いた、こうして佐藤は完全に自由の身になった、その途端、申し合わせたかのように蝋燭の芯が解けた蝋の中に沈んで僅かな光をも完全に消した。
暗闇に閉ざされても佐藤はもう先ほどのように怯えたりはしなかった、すっかり自由になった手足が嬉しかった、そして咬まされていた猿轡を乱暴に外し忌々しげに床に投げ捨てると蜀台の置かれていた台を手に取った、見えなくとも場所は覚えている。
がしゃんと蜀台が床に落ちる音がした。
そして手探りで右側の壁の方まで歩いて行った、そして壁伝いにこの部屋の唯一の出入り口である扉のあるところまでソロソロと進んだ、途中壁際に置かれていた何かの動物の剥製がわき腹に触れ、一瞬ハッとなったが「恐れるな」と己に言い聞かせた。
角を曲がって何歩目か扉の枠に手が触れた、ノブを探って回してみたがやはり鍵は掛けられていた、ここを閉じられる際耳で聞いた限りだとご丁寧に鍵のみならず閂まで掛けたようだった、まったくあの賢教授は狂人ながらもしっかりしている。
佐藤はその扉の横に座って一旦落ち着いた。そのときになって初めて縄で締め付けられた手足や焼けた部分の皮膚が痛み始めた。
痛む手足を少しでも回復させようとその部分を擦りながらこれからの段取りを考え肝を据えることにした。
この扉を彼が開けるときが勝負だ、佐藤は思った。
中年の二ノ宮と20代前半の自分ならよし格闘になったとしてもどちらが強いだろうか?二ノ宮は背も高く、歳の割に引き締まった体つきの男だが成人男子が全力で戦って全く適わぬ道理もない筈だ、蜀台を置いていた小さな台を握る手におのずと力が入る。
もう闇を必要以上に怖れたりはしない、この部屋に置かれている死骸たちにもだ。

―成瀬さんよ。
この部屋の真ん中にいる彼に佐藤は心の中で話しかけた。
―申し訳ないけれどおれはあんたになってやる訳にはいかない、殺されてたまるものか、必ずここから逃げてやる、そしてあの善人の皮を被った殺人鬼をなんとしても警察に突き出してやる、犠牲になった誰かさんたち、もしもここにいるのが嫌ならおれに力を貸してくれ、そうすればあんたたちもここから救い出してやれる、あんたたちの無念をはらしてやれるんだ。

佐藤は己の体さえ見えない無明の闇の中でひたすら息を潜めて二ノ宮の帰りを待った。

それから何時間ほど経過しただろうか、暗闇と静寂の中、佐藤にとっては永遠に等しい沈黙だったがその耳に微かだが壁を通して物音が聞こえてきた。二ノ宮が帰宅したのだ。手が固まるくらいにずっと握っていた台を再び強く握り締めた。
―来い、二ノ宮。
佐藤の体に緊張が走った。
上機嫌で帰宅した二ノ宮は上等なスーツを脱いで手術用の白衣に着替えた、それこそ鼻歌でも歌いだしそうなほどの上機嫌っぷりだった。
さあ服装を整えて(手術着だが)恋人に逢いに行くぞとばかりに自然と綻ぶ顔を隠しもしなかった。
必要な薬剤と道具は前日に揃えておいた、さてこの麻酔薬と芳しい毒薬をプレゼントに彼の顔を見に行こう、今頃佐藤君はどんな顔をしているだろう、諦めきってぐったりとしているだろうか、はたまたまだ怯えて泣いているだろうか、或いは恐怖に気が触れてしまっているかもしれない、だがどう転んでも構いはしない。
ところで成瀬君はこの贈り物を喜んでくれているだろうか?

そんな風に考えているからには二ノ宮の中では佐藤も成瀬も変わらぬ常世の人なのだろう。

彼を監禁したこの邸の地下室へ、二ノ宮が待ちに待ったこのときを迎えようと降りて行った、そこに思わぬ反撃者が潜んでいるとも知らず彼はドアの前に立つとまず大きな閂を外し、手にした鍵で錠を開けた、そしてノブを掴んで何の警戒も無くドアを開けた、一瞬、廊下の光に照らされた部屋の中心に佐藤を縛りつけた椅子が見えた、が、その椅子が倒れている上に肝心の主がいない。
そのことに気がつくのが早いか二ノ宮は風を切る音を聞いたと同時に後頭部に強い衝撃を受けて倒れた。
ドアの横にこのときを待ち構えて潜んでいた佐藤が手にした台で彼を殴り倒したのだ。
「う…」と呻いてまだ起き上がろうとする二ノ宮の頭にとっさにもう一撃喰らわせた、こんどこそ二ノ宮はぐったりとなった。
なにも殺す訳じゃない、こんなヤツを殺してたとえ正当防衛でも人殺しになるのは御免だ。
佐藤は昏倒した彼を放って置いて一目散に上へと逃げた、とにかくこの邸を逃げ出すのだ、昨日二ノ宮はここが隣家のない場所であるようなことを言っていたがだからといって何も広大な森の真ん中にある家でもあるまいし狭いこの国のことだ、外へ出てどこへでも走れば民家の一つくらい簡単に見付かるだろう、そこで助けを求めればいい。そう考えた。
ただここで彼が失敗を犯したとしたら、昏倒した二ノ宮をあの部屋に放り込んで閂でも掛けるべきだったという点だ、その失敗が彼を再び窮地に追い込むことになるのが分かったのは彼が玄関にたどり着いたときのことだ。
ドアを開けようとしたが全くあかないのだ、鍵を探してみたがどこにもそんなものが付いていない。
馬鹿な、外から開かぬのならわかるがここは家の中じゃないか、中から開かぬ玄関がどこにあるというんだ、焦ってドアの周囲を見回して気がついた、電子キーでロックされているのだ。
ドアの横にテンキーボードが付いてる。
なんてこった、解除ナンバーが分からなければ開かないじゃないか、佐藤は焦りながら舌打ちした。
―畜生、なら何処かの窓から出るしかない。
そう思い目に付いたドアを片っ端から見てみたがなんとどの窓も鉄格子が嵌っているではないか、おまけに窓枠自体もご丁寧に15センチ程度までしか開かないように出来ている。
嘘だろう?まさかこんなおかしな構造の家だとは想像もつかなかった。
彼は知らなかったがこの家は外見こそ古めかしい洋館に近い作りで大して珍しい点も見受けられなかったが、その実内部はこうして犠牲者が逃げ回ることを予め想定して二ノ宮が造り替えた城塞だったのだ。
佐藤は、それなら二階へと上がって部屋という部屋窓という窓を全部見回ったが窓には全て鉄格子、鉄格子の無い窓は明り取りの為だけの非常に小さなものであるか或いは人がなんとか出入り出来そうな大きさでもやはり数十センチしか開かぬものだけである。
ベランダくらいあるかと思ったがそれも無い、だが窓の外を良く見れば確かに周りは鬱蒼とした森林に囲まれていたがなかなか立派な庭があるではないか、あそこに出られぬ道理は無い。
佐藤はまた1階に降りて庭に面した方の部屋へ向かった、そこは落ち着いた洋間の造りのリビングルームだった、確かに庭へと通じるガラス張りのサッシがあったがやはりそこもキーロックだ。
佐藤はサイドテーブルの上にかかっていたテーブルクロスを取ってそれを窓にあてがい思い切りその中心を拳で殴りつけた、ガラスを叩き壊そうとしたのだ、だが壊れそうだったのは拳の方であった。
思わずその痛みに佐藤は手をかばって蹲った、なんだこれは、ただのガラスじゃないのか?
なんと周到なことだろう、ガラスさえも普通のものではなかったのだ。
どうする?佐藤は一瞬パニックに陥りかけた、しかしすぐに思いなおした、外に出られないのならここから警察に助けを求めればいい。
教授の家の住所など知らなかったが何かしら探せば手がかりはあるはずだ、或いは警察にこの電話がどこから掛けられているか調べてもらえばいい。
そう思い立って電話を探がし110を押そうとしてハッとした、地下の二ノ宮だ、警察が来るまでに多少の時間もかかるだろうその間に目を覚ましやしないかと思ったのだ。
一瞬、先に彼をあの部屋に監禁してきた方が良いだろうかと一瞬迷ったが先ずとにかく警察への連絡を優先することにした、二ノ宮を放り込むならその後でいい。佐藤は受話器を取って110を押した。呼び出し音が聞こえる。
だがそのとき、果たしてその悪い予感は当たってしまったのだ、彼は早くつながれつながれとそればかりに気を取られ後ろに立つ影に気がつかなかった。
ツッっと軽い音がして受話器の向こうから人の声が聞こえてきた「こちらは○○警察署です…」その声に答え様とした瞬間顔の左横から伸びて来た手にギョッとして竦みあがった、手はあやまたず電話機のフックを押した。
「いけないね、佐藤君」
その声に息を詰まらせぎこちなく振り向いた佐藤の目の前に先ほどの殴打のためか額から一筋の血を流した二ノ宮が微笑みながら立っていたのだった。
ギャッと情けない悲鳴を上げて後ろに伸びのいた佐藤にしかし壁が無常に立ちふさがった、背後の逃げ場を失った佐藤にむかって二ノ宮が相変わらず不気味なほど優しい笑顔を浮かべながらその右腕を振った。
思わず我が身を庇う様に前に伸ばされた腕にちりっとした痛みが走った、見れば右腕の手首近くに一筋の赤い筋が入りそこからツツツと血が流れ出してきた。二ノ宮がその手にしているものは解剖に使う大型のメスだった。
「警察に電話したのか、だが残念だね何も言えなかった様だ、それにこの邸から逃げようとしたのかい?それは叶いそうかね?無理だろうね、ここはそういうときの為に金をずいぶん掛けて簡単には出られないようにしたのだからね」
にこやかな表情を崩さず二ノ宮が言った、そして電話線を手に取ると手にした解剖用刀でブツリとそれをおもむろに切ってしまった。
佐藤は足がともすればいう事を聞かないくらいに震えていた、それでも僅かな気力で壁を横に少しずつ逃げた。
「悪い教え子だ、私は君の敬愛する教授ではなかったのかい?それを殴るなんて退学処分ものだね、え?佐藤君」
二ノ宮から滲み出る狂気に耐え切れなくなった佐藤はついに闇雲に走って逃げ出した。
あの地下で彼が考えたとおり、たとえ相手が狂人だろうとも力勝負であれば必ずしも負けるというわけでは無かったのだが、もう相手の狂気と手にした刃物が恐ろしくて逃げることしか考えられなかったのだ、しかしこの家のどこにも逃げ道がないのは先ほど確認したばかりだ、佐藤はいつの間にか書斎に逃げ込んでしまった、キッチンの方にでも逃げられれば少なくとも対抗手段となる包丁くらい手に入っただろうが残念ながら二ノ宮から逃げられる方向がこちら側でしかなかったのだ。
書斎に入ると佐藤は慌ててドアを閉め鍵を掛けた、家の中ばかりは普通に内側から鍵の開け閉めが出来た。
佐藤は書斎を見回してもう一度窓を確認したがこれはやはりダメだった、ならばと武器になりそうなものを探した、最悪ペーパーナイフでもあれば、と立派な机の上を、抽斗の中を無心に漁った。
「佐藤君」
追いついた二ノ宮がドアを叩いて彼を呼んだ、その声に佐藤はビクンと竦みあがった。
「ここを開けなさい、素直に出て来るんだ、なるべくだったら君を傷つけたくないんだよ、さあいい子だから」
二ノ宮はしつこくドアを叩き続けていた、佐藤は震える体で何とかして彼がドアを何らかの方法で破る前にせめてあの刃物に対抗出来るものを探さなければならなかった、突然、ドアをノックする音が止んだ、その代わりチャリチャリという軽い金属音が聞こえカチカチとそれが擦れ合う音になった、かと思うと内側の鍵のツマミがゆっくりと回りだしたのだ、ああ、そうか、彼は家中の鍵を持ち歩いていたのだ。
佐藤は反射的に書斎机の上にあったクリスタルガラス製の立派な卓上時計を手に取った。
ドアが開き、相変わらず笑顔の二ノ宮が姿を現した。
「おや?今度は殴りかかってこないのかい?」軽い皮肉を交えた調子で彼が言った。
佐藤は相手のその余裕が怖かった、だが精一杯虚勢を張って怒鳴り返した。
「来るな!このキチガイめ!誰が貴様なんかに素直に殺されてやるものか!近づいたら頭を叩き割ってやる!!」
二ノ宮の笑顔が途端に嫌悪に歪んだ。
「そういう物の言い方が気に食わないんだよ…、成瀬君はそんな口汚く人を罵ったりしなかったよ、だから君の中身には全く価値が無いというんだ、君のそのきれいな姿に似つかわしくない物をせっかく取り除いてやろうとしたのに…、なのに逃げ出そうとしたばかりか成瀬君の姿をして私を罵るなんてまったく許せない、君に中身など必要ない、いや、すっかり取り出してしまわねば気がすまない、そうだ、一刻も早くそのうす汚い中身を取り出して成瀬君に返してやらねばならないんだ、さあ、覚悟するんだ、わかるかね?そうしなければならないんだ、それが君のためであり成瀬君のためであり私の使命なのだ!」
突然語尾を荒げた二ノ宮が狂気のように突進してきた、あまりの突飛な彼の行動に驚いた佐藤は手にした鈍器を振う暇も無かった、彼の体と突き出された刃物を避けるのがやっとだった。
書斎机に派手に衝突した二ノ宮はまるでその痛みや衝撃を全く感じていないかのようにすぐさま振り返り、咄嗟に屈んで佐藤の右足首を驚くほどの力でつかんで引っ張った。
その反動で佐藤の体勢が崩れ、尻餅をついてしまった。
「ひっ」と短い悲鳴を上げた佐藤が手にしていた重い卓上時計を振り上げた、だがそれを振り下ろすよりも前に二ノ宮のメスが横なぎにはらわれつかんだ佐藤の足首の丁度腱部分を深く大きく切裂いた。
その痛みに思わず悲鳴を上げた佐藤だったが二ノ宮の第二撃が来る前に反射的に彼の頭に掲げた時計を振り下ろしていた、時計の鋭利な角が二ノ宮の頭に食い込んで血を吹き出させた、時計の重さが彼の皮膚を裂き頭蓋骨を砕いた、佐藤は無我夢中で続けざまに二ノ宮の頭に何度も何度も打撃を与えた。
やっと彼が動かなくなる頃、ようやく佐藤は凶行を止めた。
荒い息をつきながら凶器に使ったクリスタルガラスの時計を放り出し、動かなくなった男を見下ろした。
足首が酷く痛んだ、見れば切られた足首からは相当量の血が流れ、また二ノ宮の頭から流れ出た血と床で混ざり合っていた。
よりによって切られたのは腱だ、これでは歩くことがままならない、おまけに二ノ宮は恐らくもう絶命しているだろうが今際の際の力か、彼の足首をつかんで離れない。
畜生と呟きながら今だ覚めやらぬ興奮でガクガクと震える手で男の絡められた指を外しにかかった。
相当強い力で掴んでいたのだろう、何とか解こうとするもなかなか解けない。

だが次の瞬間思わぬことが起きた、死んだはずの男の手に更に力がこめられ一層強い力で傷ついた足首を握り締められたのだ。
あまりのことに佐藤の心臓は縮み上がった、二ノ宮は死んでいなかった、まだ生きていたのだ。
男の手が怪物のような力で掴んだ足首を引っ張った、その反動に佐藤の上半身が倒され床を引き摺られた。
鈍器に使った時計が遠ざかってしまう。
「…成瀬君…」
佐藤の足をめいっぱい引き寄せ、抱きこむようにして掴んだ二ノ宮が血まみれの顔を上げた。
「…すまなかった、君を殺すつもりは無かったんだ…、僕を許してくれ、許してくれよ成瀬君…」その顔は笑っている様でもあり泣いている様でもあった、彼は佐藤を成瀬と呼んでいた。
二ノ宮のメスを持った方の手が突然振りかぶられた、その大型メスの切っ先が佐藤の下腹部に刺さった、再び佐藤の悲鳴が上がった。
「君が好きだった好きだったんだ」二ノ宮はそれを引き抜くと続けざまに二度三度と佐藤の腹に大腿部にと所構わず突きたてた。それこそ滅多刺しである。
腹部に刃物が刺さるときの異様なる異物感、息も止まるほどの苦しさ。
だがそう簡単に人は死に至らない、けれども非常に気持ちが悪い、苦しい、やめてくれ、死にたくない!!
生への凄まじい執着心が彼を突き動かした、何十箇所も刺されながらもとっさに掴まれていない方の足を振り上げ男の顔面を力の限り蹴り飛ばした。
瞬間、男の腕が僅かに緩んだのでとっさに足を引き抜いて腕だけで這いずって男から離れた、なんてことだ、死んだと思って油断していたらこんな深手を負わされてしまった、佐藤は刺された腹部を手で押さえた、着せられていた白い手術着に見る見る血の衣魚が広がっていく。
「…ああ、その顔だ…」
ただでさえ頭から流れた血で染め上げられた顔に先ほどの一撃で今度は鼻血まで噴出したのか、もう完全に真っ赤になった悪鬼のような邪悪な笑みを顔一杯に貼り付けて二ノ宮がなおも言う。その顔には先ほどより一層の狂気がにじみ出ていた。
「こうして君の腹を割いたとき君はそういう顔をしたっけね」
彼の心は20余年前のあの日に完全に戻ってしまったのだろうか、二ノ宮が狂気と真紅で染め上げた笑顔でゆらりと立ち上がった。
それにつられて佐藤も背後の本棚を手すりにしてやっと何とか立ち上がり、気圧されるように咄嗟に部屋の外へと逃げ出した。
だが分が悪い、佐藤の右足は腱を切られほとんど役に立たない、おまけに何度も刺された所為かほとんどもう片方の足にも満足に力が入らない。それでも傷の痛みを忘れただの荷物になった足を引きずって逃げた、とにかく逃げた。
相手が瀕死と余裕を持っているのかそれとも頭への打撃でふらつくのか、思ったよりゆっくりと二ノ宮が不自然に左右に揺れながら後を追いかけてきた。
それこそこの命懸けの鬼ごっこは皮肉にもお互い深手を負ったために逃げる速度が均衡していた。
そして今度は佐藤は二階への階段を手すりにすがりながら上り始めた、ただでさえどこへ行っても逃げ場などないのに二階になど逃げたらそれこそ袋のネズミである、だが恐怖に支配された佐藤の頭はもう焦燥のあまり冷静な判断など出来なくなっていた。
「成瀬くーん」
奇妙なイントネーションで呼ぶ声が階段の中ほどまで上りかけた佐藤の階下から響いた。
「僕は忘れていないよ、君の、まだ暖かい内臓を抉り出したときの感触、君の首を切り落としたときのあの心地よさ、もう一度あの感覚を味あわせてくれるね?成瀬君、君を愛しているよ、生かしておけないほど愛しているんだよ」
男はきちがいのおぞましい笑い声を立てた、佐藤の全身が総毛立った、あらためてこの狂人に対して畏怖した。
だがすぐに階段を上って佐藤にとどめを刺しに来るかと思いきや彼はプイと方向を変え、どこかに消えてしまった、その行動の意味は判らなかったがとにかくこの間に佐藤は血まみれの半身を引き摺って上へと逃げた、どこかから逃げなければ逃げなければと、佐藤もまたきちがいのようにそればかりに支配された。
なんとか二階へ上がった彼だがしかし突然めまいに襲われ廊下の真ん中で倒れてしまった。
起き上がろうとしたが腕にも足にもほとんど力が入らない、出血が多くなった為か、立たなければ、立たなければ殺される!焦慮に狩られ足に腕に力を込めると体中に響くような激しい痛みが走った、体が二つに千切れてしまいそうだった。
まるで船にでも乗ったようにグラグラと揺れる視界のなかでそれでもとにかく残る気力を総動員して壁にすがって死ぬほどの痛みを堪え立ち上がった。
だが半分が血に染まった孔だらけ手術着のそこから延びた素足さえもすでに真っ赤に染め上げられているのを目にした途端、この傷ではもう助からないかもしれないという漠然とした思いに囚われ、追いかけられる恐ろしさも相俟って折角振り絞った気力も萎えかけてしまった。
「ああ酷い、畜生…痛い…死にたくない…」自分のズタズタになった体を見下ろして虚ろに呟いた。その口の中にも込み上げてきた血の味が広がる。
なんとか止血しないとこのままでは…、だが二ノ宮はどうしたのだろう?なぜ追って来ないのか。
どうせ逃げ出せないとタカを括っているのか、ああ、それとも今にもっと恐ろしい刃物をもって彼を殺しに来るのであろうか。
二ノ宮ががさきほど言っていた、内蔵を抉り出して首を…。
そのとき佐藤はあることに気がついた、視界がぼやけているのは出血の為や目に溜まった涙の所為ばかりではないことに、そう実際に煙っているのだ、そういえばどこからか焦げ臭い臭いもする。
…判った、狂った二ノ宮はこの邸に火をつけたのだ、なんて事を、ただでさえ逃げ場なんて無いのにこの上火をつけられたらもうおしまいだ。
彼が何を考えているのか知らないが、とてもじゃないが今の自分はまともに動くことさえ出来ないというのに。
いっそのこと彼がここに来たら懇願して一思いに楽にしてもらいたい。
ついに最後の気力も尽き果てたかそんなことを思った。佐藤はほとんど無心に一番近くのドアノブに手をかけてドアを開けた、そこは二ノ宮自身の寝室かゲストルームかは知らないが白いシーツの敷かれたベッドが置かれていた。まともな判断力を失った彼はふらふらと歩いてそのベッドの上に我が身を投げ出した。柔らかいスプリングがやけに心地よかった。
ベッドに横になり胎児の様に体を丸めて眼を閉じた。
―自分がこんな所でこんな風に死ぬなんて思っても見なかったな。
そんな風に考えたが不思議ともう怖くも悔しくも無かった、ただそういう事実を漠然と受け入れていた。
やがてギシと廊下が軋む音がして相変わらず赤い顔で満面の笑みを浮かべた二ノ宮がドアの前に立った。
ぼんやりと目を開けてみると彼は左手に石油缶、右手に先ほどと同じ解剖用のメスを持っていた。
佐藤は相変わらず横になりながら、ああ、やはり火をつけたんだなとただ納得した。
二ノ宮が手にしていた石油缶を放り出して佐藤の元に近づいてきた。ベッドのシーツを血で濡らしほとんど死に掛けている彼の姿が、正気を失った二ノ宮の目には、或いは自分の差し伸べる手を待つ愛しい恋人の姿に見えていたのかもしれない。
そして既に抵抗する気力の全く無い佐藤の肩に手をかけると彼を仰向けにした。
「ああ、会いたかったよ成瀬君、成瀬君、成瀬君」
彼はうわごとのように繰り返しながら生きている佐藤の体を力の限り抱きしめた、おかげでまた傷が痛んだがそれでも抵抗の一切を見せずにされるがままになっていた。
「成瀬君、ここで永久に僕と一緒になろう、この炎に何もかも焼き捨ててしまおう、君と僕の体さえも、ああ、成瀬君そうしよう、一緒に溶けて一つになってしまおう、愛しているよ、愛しているよ、今こそ僕の愛を受け入れてくれるね?せめて最後に君も僕を愛しているといってくれないか?成瀬君お願いだよ僕の一生にたった一度のお願いだよ」
二ノ宮が佐藤の体を弄っていた手を手術着の下に滑り込ませその親指を彼の腹部に何十も開けられた刺し傷の一つに突きたてた。
悲鳴が上がる。
既に付けられた傷を再び深く抉られるその脳天まで突き抜けるような痛みが霞みがかっていた佐藤の意識をはっきりと覚醒させた。
「さあ、愛しているといってくれ」
強制のつもりなのか愛撫の延長なのか、傷口に潜りこませた指を動かして更にかき回すようにしながらクスクスと笑いを漏らし語りかける。
痛みに嬲られて何度も叫びを上げながら二ノ宮の体の下で身を捩らせた。
その刹那、佐藤の目に二ノ宮の手にしているメスがとまった。
この二ノ宮の行為が死に掛けていた佐藤の精神を生き返らせたのだ。
とっさに手を伸ばして、手が切れるのも構わずメスの刃の部分を思い切り握りこんで彼の手からそれを引き抜いた。
あまりにとっさのことで二ノ宮もそれを奪われるのを阻止することが出来なかった。
解剖用刀を手にした佐藤が二ノ宮を鬼のような形相で睨み付けた、さすがの二ノ宮の目にも激しい驚きが浮んだ。
「おれは成瀬じゃない、佐藤秀一だ!お前なんか愛してなどやるものか!!」
そう叫ぶや佐藤は手にしたメスで二ノ宮の首を横一文字に切りつけた。ゴポッという音がしてみるみる傷口から血がシャワーのように噴出し組み敷かれた佐藤の顔を濡らした。
呼吸が傷口からヒューと音を立てて漏れた。その息は「な、るせ、くん」と言っているようだった。
両手で傷口を押さえた二ノ宮がベッドから転がり落ちた。佐藤秀一は先ほどまで死に掛けていた人とは思えぬほどに俊敏な動きで転がり落ちた二ノ宮の上に跨り、その心臓を目掛けてそのメスを深々と突き刺した。グエという潰された蛙のような声を残して二ノ宮は目を見開いたまま、その動きを完全に止めた。
ついにこの殺人鬼は彼が凶行に取り付かれた最初のきっかけとなった成瀬青年に生写しのこの男の手によってその命を落としたのだ。
なんという皮肉な巡り合せだろうか。

勝った、この殺人鬼に勝った。
佐藤は二ノ宮の死体を前にして立ち尽くしていた。
しかしドアの外には既にオレンジ色の光が迫っていた、ああ、そうだったっけ、火が迫っているんだ、この男に殺されずとも自分はどっちにしても死ぬのだろうなと思った。
だがそのことはもはや佐藤に恐怖を起こさせなかった、不思議なほど心は落ち着いていた。
それでも命を惜しむ本能がどこかで働いていたのか、佐藤は出血と痛みでふらふらする身体を引き摺って部屋を出た、だからといってどこに逃げ場があるわけでもなかったが。
やがて煙が天井付近から佐藤の顔の高さまで満ちて来た。
その煙を少し吸い込んで咳き込んだ、また刺された傷が痛んだ、だが体をくの字に折り曲げた彼は意外なものを目にした、それは長い廊下の
壁の下方に至極目立たぬように据付けられた蓋のようであった。
ふとそれに引かれるように極小さな取っ手を引っ張って開けてみると、なんと入っていたのは非常災害用の斧だった。
そうだ、あの狂人ながらも賢い男が非常時に逃げ道を用意しておかないはずは無かったのだ。
先ほどの格闘の前にこれ存在に気がついていれば、と少し可笑しくなった。
佐藤はそれを手に取ると、地下室から逃げ出して出口を探したときに唯一鉄格子の嵌っていない大き目の窓がこの二階にあったのを思い出した。
そこは勿論せいぜい腕が出せるくらいしか開かない構造になっていたし大方例の強化ガラスだったろう、だがしかしこの斧はこうした非常用に置かれていたはずだ、いくら二ノ宮がこの邸を改造して犠牲者が逃げられないようにしたとてこうした火災が不意に起きた場合、自分までもが逃げられなくなることを想定できぬほどあの男は馬鹿ではないはずだ、だからこれならばもしかしたらガラスを破れるのかもしれない。
佐藤はその窓のある部屋があの寝室の斜向かいの部屋だと記憶していた、自分でも意外なほどしっかりした足取りで、とはいえ無論、腱を切られた動かぬ片足を引き摺ってだが、煙を吸い込まないように服の袖で鼻と口を覆いながらその部屋に入った。
なるべく長く煙が入ってこられぬようドアを閉めて記憶どおりにあったその窓のまえに立った。そして渾身の力で斧を振り上げガラスに叩き付けた、ガラスに僅かに小さなひびが入った、いける、これなら、彼は何度も斧を振り上げ叩きつけた、そうするたびに傷が酷く痛んだが最早そんなことには構っていられなかった。
そしてついに一面皹だらけになったガラスの真ん中に穴が開いた、その穴を斧で抉るようにして辛抱強く広げ、やっと人一人が通れる幅になった、ここは二階だが下に障害物が無ければ飛び降りても死ぬような高さではない、幸い下は柔らかい芝生であった。
佐藤はそのやっと開けた穴から身を乗り出して芝生の上に落ちた。
ただでさえ酷く傷ついた体にはその衝撃すらもかなり堪えたがそれでもとにかくようやく外に出られたのだ。
それからどこをどう逃げたのか、彼は靴を履いていなかったので小石や木の枝が足の裏を傷つけたが最早それすらもどうでも良かった、片足を引き摺り暗い森の中を必死にさ迷い歩いた。
なるほど二ノ宮の言った通り、ここはずいぶんと人里から離れたところだったらしい、回りには民家の明かりも街灯すらも、一切の光が見えなかった。
やがてやっとのことで何処かの民家を見つけられた佐藤はその玄関に転がり込んで助けを求めた、何事かと出てきたこの家の奥方らしき女性はこの血塗れの重傷人をみて叫び声を上げた、すぐあとに出てきた主人と思しき人物が慌てて救急車と警察に連絡してくれた。
救急車が来るまでその家の家人がとりあえず介抱してくれたようだがそのときの佐藤にはほとんど意識が無かった、ただこれは誰が通報したのか救急車のサイレンに混じって消防車のサイレンの音も聞こえたような気がした。
二ノ宮邸の異変に気がついた者があったのだろうか。

病院に運ばれた佐藤は緊急手術を受けた、数十箇所も刺されていたがそのどれもが運良く重要な臓器には傷を付けていなかった為命は取り留めることが出来た、ただ深く切られた足首の腱は手術しても多少歩行に不自由を残すだろうとは後に医者に言われた。
そして佐藤の証言どおり、焼け落ちた二ノ宮邸からこればかりはほとんど無事に残った地下室に計7人の身元不明の遺体が発見された、まもなく彼らの大半は行方不明者の中から身元を照会され遺族の元に返されるだろう。
ただ成瀬壮介に関しては、彼には身寄りが無かったそうだし引き取り手は無いものと思われた、ましてや20年以上前の遺体である。
今回の災難に遭ったのは偏に自分が成瀬壮介に似ていたからだというが、当の成瀬もまた二ノ宮の犠牲者なのだ、ましてそれほど自分に似ていたとなれば恐らくは無縁仏として葬られてしまうであろうことに一抹の感傷を覚えなくも無かった。
だからといって何が出来るわけでもなかったが…。

その後怪我から回復して退院した佐藤秀一は大学を辞めようかどうかで悩んだ。
だが結局は続けることにした、今回の事件も大学の教授が起こしたものであったから大学側の佐藤への配慮も大きく手厚いものであったのも一つだ。
大学に戻った彼は銘々手を尽くしてある気にかかっていたものを見つけようとした。
それは成瀬壮介の生前の姿を納めた写真である、彼は当時「失踪」と片付けられてしまったから当然大学の卒業者名簿には写真は載っていなかった、在学中の在籍者名簿には残念なことに初めから写真は載っておらず名前のみが確認できただけであった。
だが様々な資料の中からやっとそれらしい写真を見つけることが出来た。
それは成瀬と二ノ宮が学生だった時分、同期生だったというある男性が所有していた写真であった、8人ほどの仲間の集合写真でその中の右から2番目が若き日の二ノ宮総一郎である、面影がある。そしてその隣に写っているのが成瀬壮介だそうだ、しかし写真が古く集合写真のため、確かに似ているといわれれば似ているかもしれなかったが、二ノ宮が言ったように「生写し」であったかどうかまではハッキリと断言は出来なかった。
この写真を所有していた男性も、たまたま友達が写っていたので所有していただけで成瀬壮介の名前は知っていてもその相好をはっきりと覚えているほどの面識は無かったそうである。
もっと探せば当時の彼の写真や彼のことを知る人物にも出会えるだろうが、佐藤は結局そこで捜索を打ち切った、それを見つけたところで今更どうでもいいことである。
彼が本当に自分に生写しだろうが所詮赤の他人だ、彼やそのほかの犠牲者の冥福を祈る気持はあってももうこれ以上あの恐ろしい事件を振り返りたくなかった。
薄情だと思われるかもしれないがしかしあのおぞましい事件を体験した当事者にしかこの気持は判るまい。

それからの佐藤はやはり傷つけられた右足を僅かに引き摺って歩くことになってしまったし体中に付けられた傷も生々しい跡を残すこととなった。
だがそれも、たまにあの日のことを悪夢に見てうなされる事はあっても徐々に体と共に癒えていった。
そして今では表面上は忘れたように振舞った。

だが唯一、どうしても気になることがある。
それは焼け落ちた二ノ宮邸から発見された遺体が佐藤も知っている7人の犠牲者のものだけだったという事だ。
警察の話では二ノ宮総一郎の遺体は結局発見できなかったそうだ、あの火勢では骨も残さず燃え尽きてしまったのだろうという事だった。
だがしかし、本当にそうだろうか?時々そんな不安が頭をよぎることがあった。
馬鹿な、彼は死んだ、確かに自分がこの手で殺したのだ。
そういくら自分に言い聞かせてみても、もしかしたら、万一にも二ノ宮がどうかして生き延びていて虎視眈々とまだ自分を狙っている様な気がしてならなかった。
いつまで経ってもその恐ろしい考えだけは頭の片隅から捨て去ることが出来なかった。


ところで、佐藤秀一はその後極度の暗所恐怖症になってしまったそうだ。
いまだに眠るときにでさえいつも灯りをつけていないと眠れないそうである。