Rain





ここはアルゼンチン、エセイサ国際空港。
今、俺の乗った機体はハイジャックされている。

離陸直前、それは起きた。
数人の現地人らしい男どもが突然液体爆弾と自動小銃を持って現地語で「この機をハイジャックした」というような内容を声高らかに宣言しやがった。
このご時世、そんなものを持ってどうやってゲートをすり抜けたのか。
機内アナウンスでは現地語と英語でその旨が放送された。冗談じゃないぞ、ったく。

この便に乗っているのはおおよそ200名ほどだろうか?
殆どが現地の白人か中南米系の人種だったが俺の前の席に東洋人らしい若い男が座っていた。

「うわぁ映画みたいだ」
その青年が日本語でそう呟いた。
中国人かと思ったが日本人か、なんという能天気な、平和ボケ人種とは言われるが現実に凶器を持った連中にハイジャックされて何が映画みたいだ、アホかこいつは。
「お前さん、日本人か?」
しかしそんな彼が多少なり気になった俺がそっと日本語で尋ねると驚いたように咄嗟に振り返った。
今でもその表情を忘れることが出来ない。
忘れることが出来ないほど印象的だったのは、驚き半分、呆気半分といった内訳ではあるが。
彼の顔には恐怖じみたものは全く浮かんでいなかった、まるで痛快なアクション映画を観て興奮している子供のような無邪気そのものの表情だった。
本当にこの状況のヤバさが理解出来てないらしい。
「あれ?貴方日本語お上手ですね、どうもはじめまして」
彼は座席越しに至極のん気そのものの口調で挨拶してきた。
確かに俺の外見は東洋人ではない、実際には日系アメリカ人ではあるが。
中東系の血も入っている、あとはアングロサクソンやらスラブやらユダヤやらとにかくめちゃくちゃに混血してる。
おかげで浅黒い肌に限りなく白に近いトゥヘッドというケッタイな容姿だ。
だが父親が日系人なので日本語だけは達者だ。恐らくこの機内で日本語が通じるのは彼と俺くらいだろう。

「ドキドキしますねー、まさかこんな一生に一度あるかないかの場面に出くわすなんて夢にも思わなかったなあ」
やっぱり明らかに浮かれた声でそっと語りかけてきた。
そういう意味でドキドキしてる場合じゃねえだろ、今まさに死の危険が目の前にあるんだぞ。
「僕、さすがにカスティーシャ語は出来ないんですけど英語で通じますよね?」
何を考えてるのか全くわからないこの青年はことさら楽しそうに俺に訊いた。
「さあな、で?通じたらどうだって言うんだ?」
「人質の解放を要求してきます、僕ひとりで十分だと説得してきます。それがどうしても無理なら女性と子供だけでも、そうしたら警察が突入する時のリスクが下がるでしょ?応じてくれるかどうかは分らないけど」
開いた口が塞がらなかった。何を考えているんだこいつは、過剰なヒーロー願望でもあるのか?交渉だと?平和ボケもここまでくると犯罪だ。
「馬鹿を言うな!そんなの無理に決まってるだろうが」つい声を荒げてしまった。

「そこ!黙っていろ!」
ハイジャック犯の一人がこちらに小銃の銃口を向けて殺気立った口調で怒鳴った。
しまった。

だがこの青年はそれを逆に好奇と見取ったのか勢い良く手を上げて発言を要求した。
「英語でいいですか?話があるんですが」
彼が日本人にしては見事なクィーンズイングリッシュで犯人の一人に声をかける。
本気なのかこいつ?まともに銃口を向けられているのに何たる豪胆な。
俺たちに注意してきたハイジャック犯の一人が奥に控えていたもう一人になにやら尋ねている。
その奥にいたもう一人の犯人も気になったらしくこちらに向かって英語で話しかけてきた。
「黙ってろと言ったはずだ」
「はい、ですけど少しだけいいですか?お願いがあるんです」
ドスの利いたハイジャック犯の声にも全く臆することなく彼はさらに進言する。

おい、悪いことは言わない、やめろ、やめろって。

ハイジャック犯の一人が少し考えたそぶりを見せた、だがその後この青年に両手を頭の後ろに組んだままこっちに来るようにと言った、なにやらこのあからさまに彼らを怖れていないおかしな青年の「要求」とやらに興味を引かれたのか。
青年は言うとおりに頭の後ろに手を組んで少しも怯えた様子を見せず席を立って犯人のところへ行った。
あいつ、帰って来るかな…と茫洋とした思いでその背中を見送った。

しばらくするとやっぱりのん気な顔でどうやら無事戻ってきた。
「ダメでした、残念」
さして残念そうでもない口調でそう言うと元の座席に座りなおした。
お前無事に帰って来れただけでもありがたいと思えよ。

犯人の要求はどうやら政治犯の釈放らしく、この機でどこかに亡命しようとかいうモノではないらしい。
滑走路の一つを陣取ったまま、時間は既に8時間を経過していた。さすがに座りっぱなしでケツが痺れてきた。
犯人と当局側のやり取りはコックピットの中で行われているらしく、客室には何の情報も伝わってこない。
一応、パイロットが要求したのか、トイレには一人ずつだが行かせてもらえたし、機内食も配られた。
だが財布や身分証はおろか、携帯電話やスマートフォン、ラップトップ、タブレット、PDA等の一切の電子機器が取り上げられペンの一本も持たせてはもらえなかった。
問題はいつまでこの状況が続くのかだ。長引けば犯人も疲労から殺気立ってくるし体調を崩す客も出てくるだろう。
そして一番危険なのは強行突入が行われたときだ、恐らく、そうなれば必ずしも全員は無事ではいられないだろう。

さらに数時間経過。
すっかり日は暮れた時刻だが外がどうなっているのかは犯人たちの命令によって全ての窓のブラインドを下ろされていたので判りようもない。
犯人グループも客室乗務員も俺たち乗客にも疲弊の色が濃くなってきていた、だがその中で唯一元気一杯で暇潰しに雑誌なんかを読んでいるのは前の席の青年ただ一人だ。こいつ、やっぱどっかおかしいんじゃなかろうか?だが機内食が配られた後、一度だけそっと犯人から身を隠すようにかなりの数の薬を飲んでいたのを見た、一見病弱とも思えないのだが。
さては頭の方の病気じゃないだろうな?この緊張感の無さを考えたらありえるかもしれん。
やがて夜が明け、乗客乗員は殆ど眠れずまんじりとした一夜を送った。例によってかの青年だけはぐっすり眠っていたが。
つか普通に寝てんじゃねえよ、てか客室乗務員のお姉さんにブランケットとか頼んでんじゃねえよ。
FAのお姉さんも若干引いてただろ。
どんだけ深刻な能天気だこいつ。

朝方、客室を見張って動かなかったハイジャック犯の一人がなにやら仲間から指示を受けたらしく携帯していた無線機に話しかけていた。
断片的にしか聞き取れなかったが、どうも警察機関から乗客の体調を慮って食料の差し入れの申し出があったらしい。
だが結局ハイジャック犯たちは外部の人間を一時でも近づけることを拒否したようだ、しかし立て篭もりが長時間続けばそれだけ犯人たちにも不利になる、交渉は平行線をたどったままのようだった。

と、そこに優雅な目覚めを向かえたあの青年が再び手を上げた。

犯人たちもこのえらく変わり者の東洋人にある意味一目置いていたらしく、今度は素直に要求を聞く事にしたらしい。
彼の要求はまたしても同じだった。
だが犯人らに疲れが見え始めたのを見て取ってか少しハードルをあげたようだ、自分は日本人だから人質としては恰好の人材である、自分を含め主に外国人を中心に数人でも囲っておけば当局とて簡単には強行突入を許さないだろう。だから同国人と病人と老人と女性と子供はまず重荷になるから解放した方がいい。それならば今、機内にある食料でもうしばらくは持つだろう。
帰ってきた彼によればその様なことを奴らに言ったらしい。

驚くべきことにこの要求は通った。

病人と子供と、女性は客室乗員であっても無条件で解放され、現地人も成人男性の数人を残してやはり解放された、これで残ったのは二十数人ほどの外国人が主となった。
確かにこれならば強行突入のリスクはさして変わらないであろうし、食料等の差し入れといった突入のきっかけになるような交渉もしばらくはなくて済む。

「もう少し、もうちょっと犯人たちが追い詰められたら…」
青年が呟いた。
まさか本当に最初に言った「人質は自分ひとりで十分」を諦めていないのだろうか?
犯人たちもそこまで馬鹿ではあるまい、人質が一人になったらそれこそ突入のチャンスを与えるようなものだ、たとえ彼が外国人であってもそんなものが通るはずがない。

さらに数時間の膠着状態が続いた後、政府機関の方から政治犯の釈放、国外への亡命をのむという連絡が来たらしい。
代わりとして残った人質を解放することを条件としてきた。
政治犯の釈放がいよいよ現実となるとそれも実現しそうだった、ただし、全員を解放する訳にはいかない、逃走用にまだ人質がいる。
そこで彼らは最初にそれを申し出てきたかの日本人青年を選んだのだった、なんと最終的にはこの彼の思惑通りになった。

機体の前にシャトルバスニ台が用意され、例の彼一人を残して残りの乗客は一台のバスに乗って解放されることになった、実にハイジャック発生から21時間後のことだった。
それを知らされた時、かの青年が俺に向かって日本語で実に意外なことを囁いた。

「解放されたら警察に知らせてください、最後の人質は末期ガン患者です、だから強行突入してもなんら問題はありません。本人もそれを望んでいます、と」

末期ガン?
この青年がか?
元気そうに見えただけに驚いた。
そうか、あの大量の薬は。
だから最初から自分だけが人質になるとしつこく申し出たのか。
どのみち死ぬから?

長い拘束から解放された俺はこのことを警察に言うかどうか少しだけ迷った、だがそれが彼の意思ならば尊重すべきかと思い、結局話すことにした。
どちらにしてももう既に人質が一人になった時点で警察側も強行突入の準備を整えていたらしい。
それが切っ掛けだったのかどうかは不明だが犯人が逃走を図る前に、それは速やかに行われた。
死角から近付いた特殊部隊が開かれたドアから機内に無力化ガスを撃ちこんだらしい。
その後はどうなったのか詳しくは不明だが撃ち合いになることもなく爆弾も使用されず、犯人は全員拘束されたとのことだった。

あの彼はどうなっただろうか?

さすがに心配だったが一番に入ってきた情報によると彼は無傷で救助された後近くの病院に担ぎ込まれたらしい。
俺は結局伸びてしまった思わぬ滞在のついでに彼に逢いに行くことにした。
聞きたいことがあったから。

彼は俺の証言もあり一躍ヒーローのような扱いになっていた。
マスコミも多く面会もまだ許されていなかったので彼に逢いに行くのは困難だったが持ち前のバイタリティ(この際深いことは聞かないでくれ)を生かして何とか彼のいる病室にもぐりこむことが出来た。
幸い本当に怪我一つなく救出されたようだ、ただガスで眠っていただけだった。

俺が病室に入るとすぐに彼も目を覚ました。
「目が覚めたか、怪我がなくて何よりだ」
ベッドから半身を起こした彼はしばらく記憶を探るように大きな目で俺の顔をじっと見つめていた、誰だか思い出せないのだろうか、まあ、医者には見えないし、まともに顔を突き合わせて喋っていた訳じゃないから無理も無いか。
「あっ、貴方は後ろの方ですね、どうも、その節は」
思い出したらしいが相変わらずのん気な挨拶だ、でもどうやら精神的にも無事なようだ、良かった。
「しばらく、と言うほどでもないな、おそらくこれから事情聴取があるぞ、身体の方はもう大丈夫か?」
「ええ、お気遣いどうも、でも犯人はどうなりました?」
「一名の死者も出すことなく拘束されたらしいぞ、怪我人くらいは出たかもしれんが詳しいことはまだ分らん、だが心配するほどでもなさそうだ」
「そうですか、よかった」
心から安堵したように彼が笑った、犯人の命も気遣っていたとはお優しいヤツだ。
「お前さんのおかげで助かったよ、俺はナザルバイェフ・ウィリアム・バレリー、お前さんは?」
「バレリーさんですか、本当に日本語お上手ですね、僕は佐…シュウイチ・サトウって言います、僕が勝手にやったことですからお礼なんて」
「お前さん…シュウイチの英語もなかなか見事だったぞ」
「照れちゃうな、ありがとうございますバレリーさん」
「ナチでいい、ところで本当なのか?」
「はい、ナチさん、え?何がですか?」
「俺が解放される時に言った事だ、末期ガンって」
「ああ…」
彼が口を開こうとしたとき、医者と警察の連中が病室に入ってきた。
当然、医療関係者に見えない俺は不審がられたがシュウイチが友達だと言ったことと俺も人質の一人だったことを説明すると納得してくれた。
だがもちろん退出を命じられた、俺の聴取はもう終わっていたしここからは警察の領分だ。
「ナチさん、後でお会いできたら」
去り際にシュウイチが声をかけた。
「ああ、市内のヒルトンにいる、連絡してくれ」
彼ともう少し話したかったので約束を取り付けた。

再会は意外と早くにやって来た、その日の夕刻、ヒルトンに部屋を取っていた俺の元にわざわざ向こうからやって来た。
出来るだけ人目を避けたかったのでホテルの最上階にあるカフェテリアで夕焼けを見ながら初めてまともに向かい合って座った。

「催眠ガスって面白いもんですね、あれ、この臭いなんだろう?って思った次の瞬間には意識がプッツリ途切れちゃうんだから」
「お前さんも一躍ヒーローだな」
「別にヒーローになりたかったわけじゃないんですけどね」

そのとき彼が腕時計に目を落とした。無論時間を気にしているわけじゃない、シュウイチは自分のザックの中から大量の薬を取り出してミネラルウォーターで飲んだ。
「すみませんね、ええ本当です、末期ガンなんですよ僕、だから犯人には知られる訳にいかなかったんですよね、死人同然じゃ人質の価値がなくなっちゃいますからね」
「それで機内では隠れて薬を飲んでたのか、ここへは何しに?」
「うーん、かっこよく言えば死に場所を探しに、とでもいうのかな?」
「死に場所ねえ」
「ええ、まあ、だからあそこで未来ある人たちを救って死ねたらそれもそれでいい死に方かな?なんて思ったんですけど、今回は機会を逃しちゃいました」
そう言ってまたも無邪気に笑った。本当にこの子供のような心底明るい笑顔の若者が間もなく死ぬ人間なんだろうか?
「これからどこへ?」
「本当はアフリカ大陸を周る予定だったんですけど、こんなことになっちゃたんでさすがに国の両親が心配しまして一度顔見せに日本へ帰ることにしたんです」
「そうか、奇遇だな俺も今は日本に住んでる、和歌山だ」
「へえ、どうりで日本語がお上手だと思った、僕は東京都在住ですけど、ナチさんもあの便でタンザニア行きのご予定だったんですよね?」
「ああ、まあな、だがまあケチもついたことだしお前さんと同じでこのまま日本へ帰ろうと思ってる、当分海外旅行はこりごりだ」
「じゃ、旅は道連れってことで道中ご一緒しませんか?僕は成田から実家のある東京へ戻るつもりなんですけど、あ、でも和歌山じゃ関空の方が断然近いのか」
「いや、成田経由で帰る、途中神奈川に住んでいる弟のところへ寄ろうかと思ってな」
事実、関西国際空港の方が近いのだが何となく気が変わった、弟は実際に神奈川県に住んでいるし、このところしばらく顔も見せてない、弟を口実の半分にして遠回りだがこの風変わりな青年シュウイチと道中を共にすることにした。
俺も大概物好きだ。

俺とシュウイチは大使館に赴いて今回の騒動に巻き込まれた顛末と日本へ帰ることを伝えた、アルゼンチン政府から賠償に用意された無料の航空券を受け取って、一旦今夜はこれまた政府が手配してくれたホテルに帰ることにした。
聞けばシュウイチは宿を取っていなかった、それを話せば俺と同じように部屋を手配してくれただろうが、俺が、なんなら今日はバーラウンジで飲み明かすか?と聞いたら乗ってきたのでそうすることになった。いざ酔いつぶれても部屋なんか取ろうと思えば取れるだろうし。

ホテルのバーラウンジの一角で向かい合いながらとりとめもない話をした。
「死に場所と言ったな、これまでどこへ行ってたんだ?」
「うーんとですね、これまではまずベタなところでオーストラリア、それから北米大陸に渡ってグランドキャニオンとかソノラ砂漠とかの有名どころを見てガラパゴス諸島でしょ、でもどこもここって感じの場所じゃなかったんですよね、いや、雄大で素晴らしいところでしたけど。だからブエノスアイレスで私は死のうってわけでここまで来たんですけど、やっぱり所詮ただの街は街じゃないですか、だからここも違うかな?って」
「一人でか?よく家族が承諾してくれたな」
「まあ、最後のわがままだからって言われたら逆らえないでしょ?」
そう言ってまたコミカルに笑った、なんだかいちいち表情が漫画っぽいヤツだな、真面目にしてりゃそこそこ女にモテそうな顔立ちなんだろうが。
「末期ガンと言ったがどこのガンなんだ?」
そう聞く事に不思議と遠慮を感じなかった、シュウイチの口調があまり深刻ではない所為だろうか、普通ならこんなことは聞けそうにないが。
「ここにね」
そう言って彼は自分の眉間を指差した。
「脳腫瘍?」
「いえ、その手前、副鼻腔のちょっと後ろのほう、それでいて脳よりも前の所に悪性度の高い腫瘍が出来ましてね、鼻咽頭癌って言うんですけど、これ日本人では結構希らしいんですけどね、なんでその希が自分に巡ってくるやらですよ、宝くじにも懸賞にも当たったことがないっていうのに全くついてないったら、手術もお勧め出来ないそうですし、化学療法も殆ど効かないんですよ」
「治療は?」
「ずいぶんしました1年半近く、でも結局どれほど強い薬を使っても放射線を浴びせても腫瘍の成長速度を遅らせることしか出来なくて、結局半年前に諦めたんです、自分の意志で、ほら、ガンってガンそのものより治療の方が厳しいでしょ?」
「一般的にはそう聞くな、幸い俺は経験した事がないし、ウチはガンとは無縁の一家だからな」
「いい事です、ところでナチさん、ご結婚は?」
「いや、残念ながら、俺はこんなご面相だし、なかなか良縁に恵まれなくてな、お前さんはどうなんだ?恋人はいないのか?」
「いましたけど病気が判ってからすぐ別れました、最初から完治はまず無理だろうと言われてましたし、まだ若い彼女に一緒に背負ってもらう訳にはいきませんでしたからね」
「そうか、残念だったな」
「いいえ、返ってホッとしましたよ、僕が死んで悲しむ人間は少しでも少なくあってくれた方が気が楽です」

彼の話し方には悲壮なものが一切感じられない。
そうなるまでに、どれだけの苦しみを経験してきたのかまでは想像の範囲でしかないが、だがそれは楽な道程では決してなかっただろうとは容易に想像が付く。
だから俺も返って仰々しい同情は寄せないようにした、恐らく彼が最も望まないことだろうから、初めからそうするつもりもなかったが。
話し込むうちにいつの間にか昨日今日会ったばかりの他人という気はしなくなっていた、たぶんシュウイチが人懐っこい話し方をするからだろう。
年齢を聞いたら24歳になったばかりだそうだ。
俺の弟よりまだ若い。
俺は36。
10歳以上も年下なのにこいつの方が早く死ぬなんて皮肉な話だ。
だがそれが人生というものなのだろうな。
それでも無常を感じずにはいられないものだ。

「あれは22歳の頃でしたか、大学を卒業して、希望の企業への就職が内定したんです、人生これからってときにですよ、会社の最初の健康診断の血液検査で白血球数が異常に多いって指摘されたんです、それで病院での再検査を勧められましてね、そこで発覚したんです、自覚症状なんて全くありませんでした、ただまあ最近よく鼻血が出るなあと思ってましたけど単純に鼻の粘膜が弱ってるんだと、それに丁度風邪気味だったから大方その所為だろうと思ってたんですけどねえ」
「今は元気そうに見えるが、これからどういう経過をたどるんだ?」
「うーん、多分リンパか血液、あるいは脳への局所転移でしょうね、あとはこの腫瘍が大きくなれば脳を押しつぶすことも考えられますし色々です、まあどう転んでも結果的には遠からず死ぬわけです、でも幸いまだこうして動けますからね、今のうちに好きなところへ行って好きな物を食べて飲んで、残り少ない人生をなるべく充実させようと思ったんですよ、クオリティオブライフ、悪いことじゃないでしょ?」
「それも一つの道だな」
「僕のことはともかくとしてナチさんはここへは何しに?」
「俺?俺は、まあ有体に観光だな、両親がセーシェルの島に別荘を持ってるから管理と自身の慰安も兼ねてたまには行ってみようかと思ってたんだ」
「へえ、ナチさんってお金持ちのおうちの人なんですね、そんな有名どころに別荘があるなんて羨ましいな、どこのお生まれなんですか?」
「別に俺自身が金持ちって訳じゃないが…まあ弟と両親は金持ちだがな、俺はフロリダ生まれのアメリカ人で父親が日系なんだ、母親がウズベク人で人種的にはめちゃくちゃに混血してるがな」
「ああ、それで今は日本に住んで日本語も達者なんですね、お仕事は何を?」
「しがない自動車整備工さ、それでも一応機械工学と数学者の博士号を持ってるんでたまに大学で講義を行ったりもするが」
「へえ、博士なんですか、すごいなあ、どこで博士号を取られたんですか?」
「まあMITだが」
「えっMIT?すごい!ナチさん天才なんじゃないですか、へえ」

シュウイチはただただ目を輝かせて感心していた。珍しい反応だ。

「なのになんで、自動車整備工なんてやってるんだ…って訊かないか?普通」
「あれ?訊いて欲しかったですか?」
「いや、そういうわけじゃないが、これを話すと大概そう訊かれるんでな」
「だって、ナチさんの意思で選んだ仕事でしょ?別に不思議はなかったんですけど、何か特別な理由とかあったんですか?」
「いや、ない、確かに俺が選んだ仕事だ、車は好きだし、機械いじりも得意だからな」
「やっぱりね、なんとなく、そういうのナチさんらしいかなって思ったんですよ」

本当に不思議なヤツだ、俺らしいときたか、まだ出逢って二日しか経ってないのに、よく見抜かれている。

「お前はどこの大学出だ?」
「僕ですか?ナチさんから比べるとお粗末で気が引けますが、東京大学です」
「ほほう、東大か、じゃあなにも謙遜することはない、お前だって大したものじゃないか」
「いえいえ、MIT出の博士が何をおっしゃいますか、日本の東大なんて世界的に見れば低いレベルですよ」
シュウイチは謙遜しながら笑った。こいつはよく笑う。その顔に死の影はまだ見られない、活き活きとしてなんにでも目を輝かせて一瞬一瞬を楽しんでいるさえある。本当にこの彼に死が差し迫っているのだろうか?嘘とも思われぬのに信じ難かった。

「機械いじりって楽しいですか?」
「ああ、まあな、少なくとも人の身体をいじる医者よりはよっぽど気楽だろうな、失敗しても人死にはないし」
「そっかあ、いいなあ、じゃあナチさん人生楽しんでるんだ?」
「まあ、そこそこといったところか」
「ナチさん長生きしてくださいね、長く生きるだけが人生じゃないとは思うけど、やっぱり長いほうが色々体験できることも多いですから」
「ああ、そうだな、努力してみる」
そういうとシュウイチはまた安心したように笑った。
「だが月並みだが死だけは誰にも平等だと思い知らされた数日だったよ、まさかハイジャックされるたぁ思ってもみなかったし、俺も簡単にくたばるつもりはないが明日がどうなるか判らないのは自分も同じなんだなと身につまされた」
「ほんとそうですね、そういう意味では僕には命の期限が知らされてて案外幸運かもしれません」
「なぜそう思う?」
「だって、人はいつ死ぬか判らない、だから一日一日を楽しもうとしない、だってあと何十年続くかわからないんだから毎日楽しんでなんていられない、嫌でもやらなきゃいけないことはあるしやりたくても出来ないこともある、そういうことを、いつかはやれるから今はいい、今日はやらなきゃいけないことがあったから仕方がない、また明日やればいい、そう思って過ごしちゃうでしょ?その点僕はやりたいことを後回しになんて絶対出来ません、だってもう残された時間は限られてるんだし、そりゃ体がついて来ないこともありますよ?これで一応は病人ですからね、でもその代わり一日を一時間を、今日出会った人を、大切に思える、その代わり無駄にしちゃった時間はすごく惜しく感じますけど」
「余命はあとどれくらいだ?」
「長く持って一年がいいとこって言われてます、まあ、あくまで予測だから明日にはどうかなるかもしれないんですけどね、だからもう今日を最後の日だと思って毎日過ごしてますよ」

あと一年、長いようでいて思いのほか、短い時間。

「そうか、じゃあ一年後、もう一度ここで会わないか?」
「え?ここ、ブエノスアイレスでですか?」
「ああそうだ」
唐突な俺の申し出にさすがのシュウイチも困惑の色を見せた。自身、色々と無茶なことを言っているのは承知の上だ。
「それはもちろん、生きていれば、ですが」
「生きていればいいだろ」
「そうは言われても…」
「急に弱気になったな、自信がないのか?」
「そう、ですね、まあ、自分の体のことは自分が一番よく判ってますし」
「一年持ちそうにないと思うのか?」
「えーと、どうかな?それは神のみぞ知るところだし、それよりナチさん、せっかくこうして気軽に話せる仲になれたのに、一年もお会いできないんですか?」
「そうだ、会う気はない、一年後以外にはな」

シュウイチが急に顔を軽くしかめて首をかしげた。
「それって生きる目的を与えてるつもりですか?」
その尋ね方は今までの底抜けに明るく人生の期限を限らてもなお前向きな彼ではなかった、きっと俺が下手糞な同情をかけていると思ったんだろう。そして俺がそんな安っぽい人間ではなかったはずだと思っているんだろう。

「どう思おうが勝手だがあと一年くらいどうってことないだろう、今のお前なら」
「さあ、どうでしょう?まあ、もちろんがんばってみますけど」
彼は今まで真っ直ぐ見据えていた視線を落とした、その顔に浮かぶ笑顔も芝居がかった白々しいものになっていた。急に俺から距離を置き始めたのだ。
だが俺も思う、昨日今日逢ったばかりの人間に何がわかるかといわれれば、わかることだってある。
こいつはこういう飽き果てるほど聞かされた同情を嫌っている。そしてそういうことをする人間と意識的に距離を置くことで遠ざけようとしている。
憐れまれるのが嫌なんだろう。
それはそうだ「気の毒に」「あきらめないで」「がんばって」そんな月並みでうわべだけの言葉を何の苦しみも知らない赤の他人が並べて一体何が変わる。

「もし一年後、生きてここで逢えたらお前を俺の自動車修理工場で雇ってやろう、機械いじりは楽しいぞ」
「は?」
シュウイチがきょとんとした顔で再び顔を上げて俺を見つめた。よし、それでいい。もう一度俺に興味を向けろ。
「一年生きられたらもう後一年でも二年でも気合で生き延びられるんじゃないのか、そんなに長いあいだお前はただブラブラ遊び呆けてるつもりか?仕事を持て、お前確か入社前の健康診断でガンが発覚したって言ってたな、なら一度もまともに働いたことなんてないんだろう?少し根性を鍛え直す必要がある、だから俺のところで働かせてやろうというんだ」
「え、いや、でもギリギリ一年持ちこたえてもそれ以上となるとさすがに無理じゃないかと…というか生きてたとしてもその頃には働けるような力が残ってるかどうか」
「お前が言ったんじゃないか、人はいつ死ぬか分からないが明日があると思うから大事な一日を無駄に過ごすのだと、今のお前だって同じじゃないか、いつ死ぬか判らない、だから好きなことだけしていよう?甘ったれるな、死ぬ人間は何をやってもいいのか?死期が来たら人殺しも許されるのか?許されるわけがないだろう、それに何でも体験してみたいというのなら一度汗水たらして働くことも体験してみろ、それすら出来ないで簡単にくたばるなんて誰が許すか、お前の親が許しても俺はそんなヤツは嫌いだ、許すつもりはない」
「えー?だけど…」
「だけどじゃない、いいからいうことを聞け、俺は人生の先達だ。俺にお前の病気のことなんか判らん、判ったところでどうということもない、死ぬならとっととどこででもいつでもくたばれ、だが生きるならとことん生きてみろ、楽しむばかりじゃなくて必死にしがみ付くこともしてみろ、お前だってそう簡単に死にたくはないだろう。だがそんなのは知ったこっちゃない、どんなに想像しても同じ苦しみを知ることは出来ないし、よしんば知っていたらこんなことは言えないだろう、だからこそ言う、生きてみたいと足掻いてろ、ずっとだ、お前の苦痛なんか知ったことか、どうしたって代わってやることなんて出来ないんだからどうでもいい」

シュウイチの視線が相手を値踏みするようなものに変わった。
俺をどういう人間か再評価しようとしているんだろう。

「そんなことを言って、僕が怒ると思いませんか?貴方になにが分かるんだって」
「さあな、ここでお互い怒りをぶつけて終わるんならお前も俺もその程度の人間だったというだけのことだろう、たかが二日前に逢ったやつに何を期待してたんだ?」
「変な人ですねえ、普通言いますか?もうすぐ死ぬ人間に向かって」
「ならどう言って欲しかったんだ?死ぬなんていわないでくれか?希望を捨てるなか?安っぽいメロドラマじゃあるまいし」
「目標を持たせたかったんじゃないんですか?」
「なんで俺がたかだか数日前にたまたま出合った若造にそんなことをしてやる必要がある、気まぐれで言ったんだ、一年後生きてたらここで会おうと、面白いじゃないか、俺にとっては所詮他人事、そしてただの賭けだ、お前が勝って一年持ちこたえたらお前に貴重な体験をさせてやる、だが負けたら俺はお前のことなんてきれいさっぱり忘れてお望みどおり精々ダラダラと長生きしてやるさ」
「ふうん」
シュウイチが呆れたような感心したような、どちらとも付かない曖昧な返事を返す。

「お前、死後の世界を信じてるか?」
「いいえ、以前抵抗力が一番落ちてたときに肺炎にかかってもう駄目だろうって医者に言われたことがありますけど花畑とか川とか見えませんでしたし、意識のなかった間の記憶もありません、死んだら眠っている間のように永遠の無に帰るんだと思ってます」
「俺もだ、一応両親がそれぞれカトリックとユダヤで教えは受けたが信心を貫くかどうかは俺の判断に任された、そして自分で判断した、結論から言えばお前と同じように魂の救済や地獄はないと思う」
「じゃあ生きる意味って?」
「そんなものはない、死んでないから生きているんだ」
「意義のある死などないと?」
「死なんて誰にでも訪れるものに意義などあるものか、そんなものはただ死にゆく者が体面を保ちたくて言い出したに過ぎん」
「難しいですね、貴方が僕に何をさせたいのか解りません」
「だから生きてたら俺の元で働けと言ってるんだ、所詮他人事だといっただろう、第一よく知らないお前の死なんか俺は痛くも痒くもないんだ」
「ううん、やっぱり難しい、それってひねくれた同情じゃないんですか?違うんなら貴方は相当の変人ですけど」
「俺は子供の頃親に散々言われた、弟と一緒に犬や猫を拾ってきたときにな、一度拾った命は最後まで面倒を見ろ、それが出来ないなら初めから半端な同情心を掛けるなと、だから俺は出来ない救済はしないことにしてる、いわばそれが俺の戒律であり宗教なんだ、その考えをお前にまで押し付けるつもりはないが、だがお前、飛行機で俺の命を救っただろう」
「あ、え?まあ、そうなのかな?」
「なのに中途半端に助けてそのまま勝手にいなくなろうとしてるお前に心底腹が立つ、まあお前がそんなことは知ったことかと言ってしまえばそれまでだがな」
「んー…じゃあ、僕は助けた人全員の命の責任を持たなきゃいけないんですか?」
「俺の解釈ならそうなる、出来るか?出来っこないだろう、たがか自分の命さえ危ぶんでるお前なんかに」
「出来るわけないですね、命を助けるってそんなに大変なことだったんですか」
「あくまで俺の解釈ならな、誰かの命を助けるというのは自分の命を代わりに差し出すことだ」
「じゃあ僕は貴方の一生を面倒見なきゃいけないんですか?」
「お前ごとき若造に世話されるほど落ちぶれちゃおらんがな」
「そんなの知ったこっちゃない、なら?」
「それも構いやしない、どうせお前にとっては誰かよく知らんやつの信念だ」
「でも僕はもうすぐ死ぬんですよ?確かに人助けはしたかもしれませんけど、貴方の言ったとおり僕は僕の命さえままなりません、いくらなんでも酷じゃありませんか?」
「なら俺に助けを求めたらどうだ?」
「え?」
「俺の命は今はお前のものだ、反せばお前の命も俺のものだ、今度は俺がお前の命を拾ってやる、そして死ぬまで面倒を見てやる、俺は一度拾った命を絶対に捨てたりはしない、お前と違って」
「うーん、なんかだんだん訳がわからなくなってきたし、妙に腹立たしくもなってきたな」
「なら俺をぶん殴ってさっさとどこへでも行けばいいだろ」
「でも僕はちょっと貴方に興味が湧きました」
「それもお前の自由だ」
「ええ、ですから、もうちょっと付き合ってもらいます」
「いいだろう」
シュウイチは通りがかったボーイにテキーラとソーダとショットグラスを二つ持ってこさせてチップを渡し、ショットグラスにそれらを注いで片方を俺の前に突き出した。
テキーラホッパーとかショットガンというやつだ。要するに勝負を申し込まれているわけだ、面白い、それ自体に大した意味はない、お互いの根性試しだ。
掌でグラスを塞ぎ同時にグラスをテーブルに叩きつけ一息にあおる。
さて、ここからが面白い。
お前の根性を見せてもらおうじゃないか。
今度は俺の手で二杯目を注いだ。

「貴方、本当に酔ってないんですか?ねえ、本当に?」
「全然」
「うわ、化け物、そんなに強いなんて卑怯ですよ!」
「勝負を持ちかけたのはお前じゃないか、俺は一度だって二日酔いになったとか足が立たないほど酔っ払ったとか吐いたとか記憶をなくしたとかいうことがないんだ」
「なんだと?ちくしょー、あー気持ち悪い…気持ち悪いのはいやだいやだ」
「さっさと負けを認めないのが悪いんだろうが」
よれよれになったシュウイチをとりあえず俺の部屋に連れてきてベッドに座らせてやった。
そう、俺はウワバミの異名を持つ男。
これに関しては誰にも負けたためしがない。何故か同じ兄弟でも弟は一滴も飲めないのだが。

「う、やばい、吐きそう…」
「しょうがないな、ほれ」
立つとふらついて危なっかしいので肩を貸してユニットバスまで連れて行ってやった。

「…うえー…気持ち悪い、知ってますか?ああ、知らないんですよね、酔って吐いたこともないんでしたっけ?抗がん剤ってね、こういう強烈な吐き気と全身の独特な痛みが延々と続くんですよ」
「吐いたことくらいなら何度もあるぞ、性質の悪い腹風邪とかでな、確かに嫌なもんだなあれは」

便器に顔を突っ込んで数回吐いた後ようやく少し回復してきたらしい。

「そもそもお前、薬飲んでるんだから酒なんて良くないんじゃなかったのか?」
「そう!そうですよ!なのになんてことしやがりますか貴方は!」
「いや、それに関してはお前も多分に悪いと思うぞ、まあ忘れてたのは事実だが」
「忘れるかなー?普通」
「まずお前が忘れてんじゃねえか」

やっと吐き気が治まったのかベッドまでまたも肩を貸してやると倒れるようにして仰向けに寝転んだ。
「それでも酒はまだいいですよ。何度か吐き戻せば、最悪次の日まで苦しめば、終わるんだから、終わらないんですよ、ずっとずっと苦しいんです、息をするのもしんどいくらい、死にたかないけど死んだ方がマシだってくらい、でも、やっぱり死ぬのは、怖いから」

ベッドの上に転がって眼を閉じたシュウイチが呟くように言う。

「回を重ねるごとに酷くなるんですよ、制吐剤や痛み止めを入れてもやっぱりしんどい、でね、そのうちね、何の為に、こんなことしてるんだろうって、思うんですよ、でも、死にたくないから、それでも変だって思うようになってくるんですよ、死ぬのを一日先送りにする為だけに、それ、なんかおかしくないか?って、でも…生きて欲しいって言われるから、泣かれるから、がんばってみたけど、でも、もう馬鹿らしくなって…どうして自分がって」

そこまで言うと急に口を噤んでしまった。
寝てしまったか。
まあいい、だいぶ支離滅裂だったが大体の本音を聞けた。
いわゆる医学用語の「死の受容への五段階」ってやつだ。

1:否認
2:怒り
3:取引
4:抑うつ
5:受容

こいつはまだ完全に5にまで達していない、本心では2と3の間をウロウロしている、そして時々4だ。
全ての人間が必ずしも全部を通るわけではないがこいつは確実にこの中にいる。
時に戻りながら、進みながら。

確信する、まだこいつには助けがいる。そしてそこで問題になるのは俺がその助けになるかどうかということだ。ここにシュウイチの思惑は関係ない。
要するにこの命を拾って、最後の最後まで面倒を見るかどうかということだ。
俺はまだ死に直面したことがない、いや、確かに一昨日はかなりヤバイ状況にはなったが明らかに状況が違う、突然降りかかってきた死の危険に対して人は混乱と否認しかない。

しかし俺の教理とでもいうのか、とにかく一度拾った命は最後の最後まで責任を持たねばならない、これだけは絶対だ。

とっくに成人してるはずなのに眼を閉じていると妙に子供っぽい寝顔のシュウイチを見つめて考えた。
明るい表情と言動はこいつの本性なのだろうか?それとも差し迫った死の恐怖への反動なのだろうか?
死というあらゆる生命が本能的に恐れるもの、それにある日突然何の覚悟も無く対面させられたら誰だって多少なりおかしくはなるだろうが。
こいつは若い。
本来なら死から最も遠い場所にいるはずなのに。
理不尽な死に対して、誰かがおかしいと怒りを感じなければいけないのだ、誰かが終わりまで共に歩むべきなのだ。
どうやらその大役を果たすのは俺でもよさそうだ。
やるならばやり遂げねばならない。
この命を拾うと決めたなら。
最後の最後まで面倒を見てやる。
この者の終わりを看取るのだ。

そして俺の手で墓を作ってやるのだ。



次の日の朝、昨日まで快晴だった空は一転して大荒れの模様を呈していた。
スコールのような大雨だ。
窓ガラスに水飛沫が叩き付けられる音で、ソファの上で目を覚ました。
ベッドの方を見やるとシュウイチがまだのん気な顔ですやすやと眠っていた。
顔色も悪くない、寝苦しそうでもない、昨夜散々吐いたのが良かったのかもしれない、ただ完全に回復してるかといえば多分無理だろう。
今日この荒れ模様では空港に着くまでの車中か或いは機内でまた気分が悪くなるかもしれないな。
まあ、それに関しては自業自得だ、ただ昨夜の腹いせに俺の膝の上に吐かれないようにだけは気をつけよう。なんか多分こいつならやりかねん。
とりあえず、まず俺が顔を洗って身支度を整えてからシュウイチをたたき起こすことにする。

「おい、シュウイチ、起きろ!」
「んぁ」
寝ぼけた声が帰ってくるが容赦しない、今度は毛布を引っぺがして再度揺さぶりをかける。
「起・き・ろ・バスに乗り遅れるぞ!」
「…あれ?ここはどこ?」
「俺の部屋だ、ばかたれ、さっさと起きてその辛気臭いツラ洗え」
「…なんかちょっと頭痛いんですけど…」
「自業自得」
「あー…そっか、昨夜飲みすぎて吐いたんだっけ…ども、おはようございます、ナチさん」
「人のベッド占領しておいて優雅なこったな、ホラ、とっとと顔でも洗ってスッキリしろ」
「はぁい…」

冴えない返事でふらふらと起き上がるとバスルームに消えた。
俺の荷物もシュウイチの荷物も大して多くはない、まあ女の旅行よりは断然少ないだろう、纏めるのにさしたる時間はかからない。
それにしても酷い雨だ、空港付近の天気はどうだか知らないが、さすがに欠航にはならないだろうが遅れることくらいはあるかもしれないなと思っていた。
アルゼンチン政府の我々ハイジャック被害者への配慮により、空港まで特別バスが用意された。
朝食を済ませた後、ホテルのロビーでバスの到着を待ちながら相変わらず窓の外の土砂降りの雨を眺めていた。
シュウイチはといえば朝食は元気よく食べきったくせにまた気持ちが悪くなってきたといって先ほどトイレに駆け込んでいた。
まったく、それも自業自得だろうが。よくよく懲りんやっちゃ。

バスの到着が雨の所為で遅れているという連絡がフロントに入った。
やれやれ、まずバスか、まあ少なくとも今は少々珍妙だが道連れがいるから退屈はしないで済みそうだが。
それにしてもシュウイチのやつ遅いな、まさか急に具合を悪くしてぶっ倒れてるんじゃないだろうな?
にわかに心配になったので荷物をクロークにまとめて預けてロビー奥のトイレに様子を見に行くことにした。
その途中、ホテルの広い中庭が見えるガラス張りの長い廊下で土砂降りの雨の中に人影を認めた。最初はホテルの従業員かと思った、この雨の中ご苦労なことだと。
しかし次の瞬間それが誰か気がついた。
シュウイチだ。
バケツをひっくり返したような雨の中を傘も差さずにたたずんでいる。
何やってんだあいつ?
さすがにここから声をかけても聞こえないだろうと思って咄嗟にどこかにあるだろう中庭への出口を探した、それを見つけるとドアを開けて雨の轟音に負けないよう声を張り上げた。

「おい!シュウイチ!そんなところで何やってるんだ!」

しかし聞こえていないのか、シュウイチは天を仰いで立ち尽くしたままだった。
雨で煙っているのにそれは何故か妙に透き通ったような光景に見えた。
ほんの一瞬、声をかけるのをためらわれるほどに。

「おい!シュウイチ!」
だが思い切ってもう一度声をかけた。
「ナチさん!」
こんどは聞こえたか、しかし振り向きもせずにシュウイチは俺を呼んだ。
「ナチさん、決めました!死に場所!」
「え?なんだって?」
雨の音で途切れがちな彼の言葉をもう一度よく聞こうと聞き返した。
シュウイチが振り返った、その顔は初めて逢ったあの時の座席越しに振り返ったあの無邪気で心底楽しそうな表情によく似ていた。
いつの間にか俺も雨に濡れるのもかまわず外に足を踏み出していた。
「だから、決めたんです、いつ、どこで死ぬか!」
「どこだ?まさかこの中庭じゃないだろうな?」
「違います、雨ですよ!」
「雨?雨の日?」
「そう!雨の日!僕はね、こんな鬱陶しい雨の日には絶対に死にません、青空の日に死にます、だから今日も死にません!」
「そうか、そりゃいい、晴れの日限定か!気分が良さそうだ!」
「はいそうです!ネイティブアメリカンの口承詩にあるでしょ?今日は死ぬのにもってこいの日だって、だから雪の日や曇りの日にも死にません!雲ひとつないサッパリとした青空の日にこの地で、貴方の目の前で死にます!」
「俺の目の前でか!よし、いい根性だ気に入った!」
「だからナチさん!一年後、ここブエノスアイレスでお会いしましょう、その日が快晴なことを願って!」
「わかった、必ずだ!生きて会いに来いよ!それで俺に勝ちを宣言したらぽっくり死ねよ!」
「ええ!約束です!」
「男の約束だぞ!」
「はい!」

傍から見れば怒鳴りあいのようだっただろう。

俺はこの命を拾った。だから最後まで面倒を見るのだ。こいつの命が尽きる瞬間を見届けるのだ。
なろうことなら、それがえらく先のことであることを同時に願っていた。

遅れてきたバスに乗り込んだ俺たちを他の乗客が奇異な目で向かえた。
それはそうだろう、バスは屋根のあるホテルの玄関まで乗り付けているのに何でかこいつら頭からつま先までずぶ濡れなんだから、どこでなにをしてたんだって話である、とりあえずバスの中で雨水の滴る髪の毛くらいは拭いたが。
荒れ模様なのはこの地域だけで、フライトには全く影響がなかったようだ、季節外れのスコールのような大雨の国をその日、今度は無事発った。
当たり前のことだが雲の上は快晴が広がっている。

「なあお前、なんだったら熱帯の南国にでも移住したらどうだ?場所によってはほぼ毎日スコールが降るぞ、そしたらお前、永久に死なないんじゃないか?」
「あは、それいいですね、朝危篤に陥っても午後には持ち直さなきゃ」
「忙しくて大変だな」
「僕、南国はこの旅以外ではハワイと沖縄くらいにしかまともに行った事なかったですけど、でもいいですよね、なんだか何もかもが明るくて」
「俺はハワイも沖縄も南半球の南国と呼ばれる場所には大体行ったことがあるぞ、ああ、死海にも行ったことがあるな」
「さすがセレブ、レベルが違いますね、死海って本当に浮くんですか?」
「セレブではないというに、ああだが浮くぞ、面白いくらい浮くぞあそこは、ところで沖縄に行ったと言ったがどこかの離島か?」
「まさか、そんな気の効いたところ行きませんでしたよ、第一高校の修学旅行だったんだし」
「お前こそハイソじゃないか、修学旅行で沖縄なんて、私立校か」
「いや公立、僕の時代にはとっくに公立高校でも航空機の使用が認められてたんですよ、海外に行く学校だってありましたよ」
「そうなのか?知らなかった、世相は変わったもんだな」
「やだねえ、ナチさんてば旧世代なんだから」
「俺が旧世代なんじゃない、日本に住んじゃいるが育ちはアメリカなんだ、詳しくなくて当然だ」
「ああそうでしたね、でも旧世代には変わりないですよね」

長いフライトだったが奇妙で明るくていちいち皮肉を言う道連れがいたおかげで退屈しないで済んだ。
ニューヨークで乗り継いでようやく成田に着いた、シュウイチとはそこで別れることになった。
「じゃあナチさん、ちょうど一年後、あの地で」
「ああ、敵を応援するのもなんだが、どうせなら勝って見せろよ」
その言葉を最後に別れた。
今にして思えば不思議な出逢いだったと思う。







それから一年後の今日。

俺は約束を果たす為に再びアルゼンチンへと向かっていた。
こういう時、自営業だから割と自由が利くのがありがたい。
俺はこの一年、特に大きな変化もなくまたごく平穏に過ごしてきた。
シュウイチはどうしているだろう?
まだ生きているだろうか?
約束どおりこの地にやってくるだろうか?

約束の日の早朝、機内で天気予報を見ていたらブエノスアイレスの降水確率は50パーセントだった、まるであいつに会える可能性そのもののような確率だと思った。

俺はヒルトンのラウンジで待っていた。
そもそも、まだ生きていたとしてもここまで来れる健康状態にないかもしれない、だがそれを知る術はない、住所や電話番号などお互いに連絡の取れる手段を何も伝えないまま別れたのだから。
それに、もし元気でいたとしてもハイジャックという日常と掛け離れた状況で出会ったとはいえ、たった4日間一緒にいただけの友人と呼べるかどうかさえ判らない人物との口約束で遥々逢いに来るだろうか。
だがこんな頼りない条件の中でも生きているならば絶対にやってくるという奇妙な自信が根底にあったような気がする。
だからとにかく待ち続けた。

ふと、ラウンジの窓から外を見た、ここに着いた朝から今にも泣き出しそうな重い空だった。
頼む、頼む、降らないでくれよ。
雨が降れば、それはシュウイチがここに来ないということを告げるような気がしたから。
それは即ち、あいつはもう死んだということ。何の根拠もない勝手な憶測だったがそうなればあの日約束したことはもう守られない気がした。
あいつは晴れのこの日に会おうと言った、そしてこの地の晴天の空の下、俺の前で死ぬのだと約束した。
それから二時間ほど経過して変わらず窓の外を眺めていると祈り空しく晴れるどころかとうとう雨が降り出した。

あーあ、降って来やがったか。

今日一番重いため息をついた。
それでもしばらくは今朝からもう何杯目になるのか覚えていないコーヒーを飲みながら外を飽きずに眺めていた、
しかし止むどころか雨足はだんだん強くなってくる有様だ。
それこそ一年前、あいつと雨の中で約束を交わしたあの日のようになって来た。

俺は事前にここに部屋を取っていた、もちろん日帰りなど無理だからだが。一年前と同じ部屋。本来ならシュウイチもいたはずの。
朝からラウンジに居座り、コーヒーばかりをがぶ飲みしながら外を眺めてはため息をついている俺をホテルマンの一人が胡散臭そうな目で見ながら通り過ぎた。
まあ確かに胡散臭いわな。

そんなんだから必然的にトイレも近くなろうもの。
重い腰を上げて以前シュウイチと約束を交わしたあの中庭を一望できる渡り廊下を通ってこれまた本日何度目になるのか覚えていないトイレへと向かった。
ふと、ガラス張りの渡り廊下から見た景色は本当に一年前のあの日のようだった。
あの日見た雨に煙る透明な光景。



幻覚だろうか?



あの日と同じようにあいつが、シュウイチが中庭で雨に打たれながら立っているのが見える。ああ、俺も結構重症だな。

いや、待て、違う。
呆然と突っ立って眺めてた俺に向こうが気が付いて笑顔で勢いよく手を振ってきた。
本物のシュウイチだ、いや、よく見たら手を振ってるんじゃなくて手で招いてるんだ、そこへ出て来いってのか?
これが幽霊や幻覚だったら手招きされるのは薄ら寒い話だが、あれは間違いなく。
「シュウイチ!」
思わず雨の中に飛び出していた。
不思議とこれが幽霊の類だとしても、まあ幽霊など一応信じてはいないが、全く怖いとは思わなかった。
「シュウイチ!本当にお前だよな?お前、生きてたのか!」
大雨の音にかき消されないよう一年前と同じように声を張り上げて訊ねた。
「ナチさん!本当にナチさんだ…、逢いたかったです!お元気でしたか?」
「ああ見ての通りだ!というかお前の方こそ思ってた以上に元気そうだな」
「はいとても元気なんです!あのね、聞いて、ナチさん、僕ね、治ったんです!」
「あ?なんだって?」
「だから、信じられます?治癒はまず不可能だって言われてたのに、腫瘍が消えたんです、体のどこを探してもがん細胞の一つも見つからないって!」
「ちょ、ちょっとまて、え?治った?」
「はい!本当に治っちゃったんです」
「冗談だろ?」
「残念ながら本当です!今日この日までは絶対生きてやろうと命根性汚くがんばってたら、三ヶ月前の検査で、もう、腫瘍の影も形もないって…」
雨でびしょぬれで、泣いてるのか笑ってるのかよく分からない顔。
「ちょっと、お前、こっち来い!」
驚愕の展開に頭がグルグルするので、とにかくもう少しまともに話を聞きたいと、俺はシュウイチの腕を掴んで引っ張ってった。同時に腕を掴めたことに安心した。
俺が取った部屋でとりあえず、ケツを落ち着けて話を聞いた。
「やっぱり、お前幽霊でも幻覚でもないよな?」
渡したタオルで髪を拭いてるシュウイチはどう見ても生きてる人間の存在感そのもので。でもまだ俺はもしかしたら一瞬でも目を離した隙に消えるんじゃないかとか馬鹿なことを心配していて。
「幽霊じゃないですよ、だってほら足もあるし、日本の幽霊は足がないものと相場が決まってるでしょ?」
雨の雫がまだ滴っている、足は確かについてた。
それに上気した頬も血色が良くて、これが死人なら多分ホラー映画はアイデンティティを失うだろう。
「治ったって本当なのか?」
「はい、嘘の方が良かったですか?」
「確かにがん細胞が何の前触れもなくあるとき突然消えてしまうような奇跡的な回復例は世の中にいくつもあるが、そういう奇跡がお前にも起こったってのか?」
「んー、まあ、奇跡というよりナチさんのおかげ、みたいですね、ちょっとしゃくだけど」
「俺?俺はなんもした覚えはないが」
「いやあ、ほら、貴方がね闘志に火をつけてくれたでしょ?あの後僕は日本に帰ってもう一度治療を再開するって決めたんです、だって勝負事に負けるのは男としてどうしてもねえ。だから何がなんでもあと一年生き延びてやるんだって、そう思っていくつかの新しい治療法を試したんです、元々は医師もこういう方法もあるとは提唱したもののあんまり効く可能性はなさそうだからと後手に回ってたんですけどね、こうなったらなんでも試してみなきゃで」
「そりゃ運が良かったな、…いや、よくがんばった」
「うん、でも、多分ね、生き延びたい理由があったからかもしれません、治療そのものよりも、自己免疫力の勝利というか」
「今日、俺と会う約束がその免疫を高めたって?ずいぶん都合のいい話だなあ」
「そう本当都合よすぎて僕だって信じられません、でも貴方のおかげ、本当に、あきらめなくて良かった」
そう言ってシュウイチが手を伸ばしてきたのでその手を握り返した。雨で多少冷えてたけれど、確かに体温のある命のある手で、やっとこれは間違いなく本物なんだと今日何度目かの安心をした。ああ大丈夫だ、これは消えない。
「再発の危険はないのか?」
「もちろんなくはないです、あと5年無事でいられたらめでたく完治認定です、でもあんまり心配してません、なんとなくだけど」
「俺もそう思う、お前なら大丈夫な気がする、なんせ医者も一度は匙を投げた悪性腫瘍を消滅させるほどの根性の持ち主だ、お前みたいなゴキブリ並の生命力が簡単に尽きるようなら今頃人間そのものが絶滅危惧種だ」
俺の言葉にシュウイチは笑った、ゴキブリ呼ばわりはひどいと言ったけど、お前はゴキブリなんかより強い。
掴んだ手に力がこもるのを感じた。
「賭けのこともそうだけど、それより貴方に逢いたかったんです、なんでかよくわからないけど」
「そこまで想われてたなら冥利に尽きるな」
「お礼も言いたかったし、ありがとう、ナチさん」
「そうまじめに言われるとさすがに照れる」
なんか涙腺に来そうだ、俺も歳かな。
「でも、賭けは僕の勝ちですね」
先ほどまでのしおらしさを吹き飛ばして一方的に手を離したシュウイチが勝ち誇ったように言った。
「あ?」
なんかふんぞり返って鼻鳴らしやがった、今明らかに「フフン」って言ったぞ。漫画みたいにフフンって。
「いや、ちょっと待て、確かお前今日まで生き延びると言ったけど、同時に俺の目の前で死ぬところまでが賭けの内訳だっただろ、お前死なないじゃん、厳密には勝ってないだろ」
「え?なにそれ、生きて合うまでが賭けだったでしょ?死なないのは僕の努力のなせるわざですよ」
「いいや違う、お前は晴れの日のこの地で俺の目の前で死ぬと言ったんだ」
「違いますよ、ああでも、うん、確かに…そう言ったような…いや、でも今日は雨だし、僕は今すぐには死なないし」
「寛解したんだろ?じゃあ今雨が止んでもお前生きてるじゃねえか」
「なにそれ?僕が治ったのに喜んでくれないんですか?」
「いや、それは嬉しい、だが賭けは無効、お前は勝ってないし俺は負けてない」
「ナチさん、もしかしてすごい負けず嫌い?」
「そうだとも、でもお前だってそうとうなもんだろうが」
「ううむ」
シュウイチは以前と変わらぬコミカルな表情で口をへの字に曲げた。
いちいち面白い顔をするやつだ、いいじゃないか、得はしたが、損はしなかったんだ。
「だがあの約束は無効じゃないぞ」
「へ?」
「忘れたとは言わせんぞ、お前一年後の今日まで生きてたら、俺の元で働く約束だったろ」
シュウイチが「あ」と小さな声を上げてただでさえでかい目をことさらまんまるくさせた。
「えー、と、あの、あれ、本当に本気だったんですか?」
「俺は負けず嫌いだが嘘つきではない、前に言ったはずだ、お前はいやか?」
しばらくポカンと俺の顔を見つめてたシュウイチは、そのうちまるで愛の告白を受けた小娘のように顔を赤くして視線を落ち着き無く彷徨わせた。
「あ、はい、いや、え、と、うれしい、です、けど、僕がお役に立てるかどうか…あ、それに、まだお互いよく知らないこともあるし…」
「これから知っていけばいいだろ、それにあと5年は定期的に検査も受けなきゃならないんだろ?俺は事情を知ってるし考慮してやる、それに俺もこき使える若いのが欲しかったんだ」
俺が拾った命だ、最後まで面倒をみなきゃいかんのだし、俺はこいつの根性が気に入った。
俺は人の形をした神というものを信じてはいないし運命論者でもないつもりだ。
それでもこいつとの出会いは何かしら特別なものがある気がした、それはもう確信に近く。
「俺のところに来い、俺が拾った命だ、あと最低でも5年は守ってやる、それを越えられたらその先だって、なんせお前の一生はもう俺の物なんだからな」
なんだかプロポーズみたいな台詞だなと思いながら今度は俺の方から手を伸ばした。

シュウイチがその手を取る自信は、あった。


END










rain rain go away come again another day.
all the world is waiting for the sun.