と犬 2




僕は王様だ。


僕は僕に相応しい毛並みのいいきれいな犬を一匹飼ってる。

それは人が見たら犬ではなく、手足を短く切断され舌を切られた人間であると言うかもしれない。
でもこれは犬だ。僕が犬だといったら犬なんだ。

これはかつて僕がもっとも愛した男だった。
僕があんなにも愛していたのに、こいつは僕を裏切った、僕を裏切って女を愛した、だからその罰を受けたんだ。

寒い冬は仕方が無いけど、暖かい季節には服なんか着せてやらない。だって犬は普通、服なんて着ないものだろう?こいつは出来損ないの犬だからあんまり寒いとすぐ体を壊す、だから寒い季節には仕方なく服を着せてやる。まったく出来が悪いったら。
でもこの世にたった一匹だけの僕の特別な犬だ、けなしていいのも、愛でていいのも、僕一人だけなんだ。そして飼い犬は、ただ従順であればいい。

ほんとうは、こいつの手や足を切断するのはちょっとだけ惜しかったな、うん、ちょっとだけだけどね。だって僕は好きだったし、お前のきれいな姿がとても好きだったし、なんども、あの形の整った長いきれいな腕で抱きしめられる夢を見た、なんどもお前のきれいな瞳が僕だけを見てくれることを願った、お前の全てが僕の為に存在してくれていたらどんなにいいか数え切れないくらいに想った。でもお前が選んだことだ。
淫乱で馬鹿でどうしようもない女を助ける為に、たかがそんなことの為に、愚かにもお前は自ら犬になることを選んだんだ。
馬鹿だ、お前は本当にどうしようもない馬鹿だ。
あーあ、こんな馬鹿だったんじゃ、僕も興ざめだよ。

でも。

それでも、僕はなんて慈悲深いんだろうね。こいつの手足と舌を切るのには国一番の外科医を呼んで執刀させた。ちゃんとした処置をして、最高の治療してやった。さすがに意識を回復して手足の無い自分の姿を見たときは覚悟していたとは言えだいぶショックを受けてたみたいだったけど。…ああ、そういやあの馬鹿女の手足をぶった切った時はショック死だけはしないよう軽く麻酔して鋸でざくざく切ったっけな、切断面は焼いて止血してやった。あのときの馬鹿女の苦しみようといったらこれほど愉快なものは無かったなあ。いや、あんな薄汚い雌犬のことはもうとっくにどうだっていいんだ。あの女が今どうしているかって?さあね?ま、殺さないって約束はしたからね、一国の王たる者が約束を反古には出来ないし。一応、生きてはいるよ、というか、無理矢理にでも生かしてるっていうのかな?約束だしね。ふん、あの馬鹿女。とっくに頭はイカレてたし、麻薬中毒で体はボロボロ、おまけにどうしようもない淫乱ときたもんだ。そもそもこいつが身を捨ててまで守る価値のある女じゃ無かったんだ。そんなものの為に、僕はすごく大事にしていたきれいなものを奪われたんだ、ただの犬畜生にされてしまったんだ。ちくしょう、ちくしょう、なんで僕がこんな目に遭わなければならないんだ、僕は王様なんだぞ、誰も僕には逆らえないのに、誰を生かすも殺すも僕の一存だって言うのに、どうしてなんだ、どうして。どうして僕が、こんな目にあわなければいけないんだ。

かつて僕があんなに愛した長くてきれいな指も足も今はもう無い。どんな音楽を聴くより耳に心地よかったあの澄んだ優しい声ももう聴けない。けど僕は、絶対に後悔なんてしていない。裏切り者には罰を。それの何がいけないんだ、何を後悔することがある。
絶対に後悔なんてしていないんだ。

宮廷料理人がやたらと腰を低くしながら犬のエサを運んできた。食事じゃない、エサ、だ。この犬を連れて宮中を歩くようになってから、僕はますます周囲に恐れられるようになった。今までも、幾多の反逆者や罪人や、時にはなんの罪もない人々を血祭りに上げてきたけど、そのたびに恐れられては来たけど、やっぱり同じ裁かれるのにしても一思いに殺されるのとこんな風に見せしめに生かされるのとではだいぶ心象が違うらしい。

料理人はさも薄ら寒い愛想笑を浮かべながら丹精込めて作りましただの味は最高ですだのとおべんちゃらを並べ立てた。
「ヘドロの味だって構いやしないさ、どうせこいつには舌が無いんだから味なんて判らない」
僕がめんどくさそうにそういうと料理人は更に腰を低くして冷や汗を浮かべながらそそくさと部屋を出て行った。
本当はこんな薄気味悪い犬の為に料理するのも、僕に直接顔を合わせるのも嫌だったんだろう。
誰も彼も見え透いたお世辞や無理矢理作った笑いで僕の機嫌を取ろうとする、浅ましい連中ばっかりだ。
僕の機嫌を損ねたらこいつと同じように犬にされかねないとでも思っているんだろう、ふん、別にどうだっていいけどさ。

こいつは犬にされてからほとんど表情を作らなくなった、それから、人前に連れ出されるときにはほとんど顔を上げなくなった、当然だろう、見上げれば目に入ってくるのは人々の嫌悪や侮蔑や哀れみの視線だけなんだから。
エサが運ばれてくると犬は四足でヨタヨタと歩いて来る、でも僕がよしと言うまでは食べない。うん、おりこうだ。
僕が「よし」といったら浅い皿に顔を突っ込んで文字通りの犬食いを始める。でも多分、本当に腹が減っている訳ではないんだと思う、手足を切られたばかりの頃に一度、こいつはほとんど物を食べなくなったことがある。少し食べてもすぐ吐き戻してしまうのだ。食べたがらないのではなく精神的ストレスから体が食べることを拒否しているのだと専属の「獣医」は言った。でも、治すのは簡単だった。僕がたった一言、「餓死自殺でもする気か?お前が死んだらあの女に後を継いで貰わなくちゃならなくなるな」と言ったら、何度吐き戻しても吐き戻しても、自分の吐瀉物までもを無理矢理に胃に詰め込むようになった。
は、はは。馬鹿げてる、なんだっていうんだ、この駄犬。

そんなことを思い出したら僕はなんだか急にイラだって無心にエサにがっついている犬のわき腹を思い切り蹴飛ばした。
四足の分際で安定の悪いこいつは突然の打撃にむせ返り、あっけなく転がった。この馬鹿犬、馬鹿犬。なんだか無性に腹が立った僕は転がって仰向けになった犬の腹を何度も何度も足で踏みつけた。その度に顔中エサだらけにしたみっともない馬鹿犬は声にならないうめき声を上げた、文字通りこいつには手も足も出ない、やられるがままだ。馬鹿犬の体中に存分に蹴りをくれてやった僕はさすがに疲れてしまい息切れがしたので椅子に座り込んだ。いくら僕自身に大して力が無いとはいえさすがに犬は全身痣だらけになってしまった。しばらくうずくまったまま動かないでいると思ったら、やっとおぼつかない足取りでゆっくり起き上がり、虐待した僕には目もくれないでまたエサを貪る事に専念しだした。
…ふん。
僕は半分自嘲気味の笑みを浮かべてその光景を見守った、自分の荒い呼吸が、なんだかやけに耳障りだった。

これでもこいつは長く歩けるようになった方だ。
もともと、切断面は一流の医者が最高の処置を施しただけあって、回復自体は早かった。感染症にもだいぶ気を使ったからこいつが歩けるようになるのにさしたる時間はかからなかった。手足の縫合面を地面から守る為に特注で作らせたカバーを付けた。犬らしいバランスを保つ為に前足用のカバーは後ろ足より長く出来ている。僕のアイディアでそのカバーの設置面を丸くし、あえて安定感を得られないようにした。そうして僕の完全に理想の犬が完成した。最初の頃はこのカバーの所為で一歩歩くことにグラグラとしてしまいバランスを崩すので僕の歩調に合わせて歩くどころかしょっちゅう転んでいた。「おい、それじゃ散歩にならないだろ?とっとと起きろよこのグズ犬」僕が罵声を浴びせるとこいつは惨めにも息切れしながらようやく四本足で立ち上がり、また転んでは立ち上がるを繰り返した。でもそのときの僕はすこぶる機嫌がよかった。なんせはじめてこいつを連れて人前に出たんだ、僕はこの犬に悪態をつきながらも内心では意気揚々としていた。広い宮中の中を、庭をこんな状態で歩かされるだけでもそうとう辛いのに、ほとんど裸同然で、しかも四肢を切断されたこの世で最低のみじめな姿で、首輪をはめられて鎖で引かれ人々の視線を浴びながら連れまわされるのはどんな気持だろう?それを考えると僕はゾクゾクした。
肉体的な苦痛だけでなく精神的な苦痛も大きかっただろう、歯を食いしばってそれでも命令に従う姿が僕の充足感を満たし、同時に他では得られないような興奮を覚えた。こいつは今どんな気持でいるんだろう?少し気になるけどどうせ物言えぬ犬だ。もう一生こいつは人間らしい扱いなど受けられる事は無いんだ。首輪に繋いだ鎖を力いっぱい引っ張って時々無意味に首を締め上げてみたりしながら、僕はとてもいいものを手に入れたと、本気でそう思った。でも次第に表情をなくし、抵抗の一切を見せなくなっていったこいつを、すこしつまらないと思い始めていたところだ。もっと無様に足掻いてくれたらいいのに。



そんなある日、犬の食欲がまた落ち始めた。なんだ?今更またストレスとやらか?最初はそう思ったけど少し違うみたいだった。食べたくないと言うより食べ辛そうにしているような気がする。一口、口に入れては飲み込むまでにやけに時間がかかる、本人、もといこの犬自身は早く飲み下そうとしているようなのだが。早速、「獣医」に調べさせて原因はすぐ判った。口の中を切っていたのだ。「獣医」の話によれば転倒などで出来た傷ではなくほぼ間違いなく人為的なもので、殴られたか或いは硬い物を頬に叩きつけられたかしたらしい、奥歯がグラグラだった。どうりで食べるのに時間がかかるわけだ。もちろんその誰かとは僕ではない、たしかに僕はしょっちゅう、それこそ人前でもこいつを虐待していたけれどこの傷には覚えが無い、それに僕は顔は殴らないんだ、だってこいつのとりえなんてもうそれくらいしかないんだから。こいつはいつも頭を垂れているので一見表からは見えなかったからあやうく見逃してしまうところだった。
誰かがこいつを殴ったのか?だとしたら絶対に許しがたい行為だ。これは僕の飼い犬だ、それをしていいのはこの僕だけだ。
どう考えてもこいつの世話を任せている下僕どもが一番怪しい。こいつは手も足も無いから人に世話してもらわなければ何にも出来やしない。僕は数人の下僕たちにこいつを毎日きれいに洗っていつどきでもこの僕に相応しいきれいな犬であるようにと命じている。

さっそく、犬の世話係の男たち4人を引っ立てさせた。

「どうやら僕の犬が誰かに殴られて怪我をしたらしいんだ、誰だか知らないが僕の持ち物を勝手に傷つけるなんて極刑ものだな。さて?お前たち、僕の犬に暴行を加えた犯人に心当たりはないか?」
僕はどうせこの中の誰かだと判っていて白々しく尋ねてみた。男どもは互いを横目でチラリと見たりソワソワと落ち着かぬ様子でいたりあからさまに挙動を崩していた。
「もちろん、この中にはいやしないだろうね?だってこいつを大事に世話するように厳重に命じたはずだからね、でもどこかの誰かが僕の犬を殴ったのならそれを止められなかったお前たちの職務怠慢だよな?仕方がない、とりあえず全員に相応の罰を受けてもらうとしようか」
僕がそういった途端4人にどよめきが走った、そうして互いにやれこいつが犬を小突き回してたのを以前見ましただの、ウソです私は真面目に世話をしていましただの、お前は犬のことを薄気味悪いだとか悪態をついていたじゃないかだのと醜い言い争いが始まった。
やれやれ。結局どいつもこいつも真っ当に世話なんかしてなかったわけか、まったく腹立たしい奴らだ。
この僕が犬を殴ったり蹴ったりしてたからってお前たちみたいな下賤な馬鹿どもが同じことをして良い訳がないじゃないか。
いいかげんうんざりした僕はとりあえず全員を拷問にかけてみることにした、まあ、直接傷つけたヤツだけじゃなくてどうせ他の奴らも全員罰は受けてもらうがな、連帯責任ってやつだ。また新しい世話係を、今度はまともなヤツらを見つくろわなければならないな。面倒くさいなあもう。


僕の国には豊富な金の鉱脈がある、気候も温暖で土地も肥沃だから農作物も豊富で歴史もある豊かな美しい国だ。
この国の輸出業の中に、植物、特に薔薇の輸出がある、でもこの宮殿に、今は薔薇園はない。この国を支える重要な産業の一つだというのにこの国を統べる国王の宮殿に薔薇はおろか花の一輪もないことをごく稀に不思議がられる。
でも僕は花なんて大っ嫌いだ、とくに薔薇が一番嫌いだ。
僕の私室には植物はおろか今は花瓶すら置いていない。あれ以来僕は薔薇が大嫌いになってしまった、見るのもイヤだ、吐き気すらもよおすほどだ。なんでだろうか?あんなに好きだったのに少しも綺麗に見えなくなってしまった。
薔薇を美しく生けてくれるあのきれいな手がないからだろうか?僕に神話を話してくれるあの優しい声がないからだろうか?

なんで僕は。

2日後、犬を虐待した犯人が拷問に耐え切れず事実を吐いたという、さてどうするかな?
他の3人も気に食わないから強制労働所送りにすることにした、そこで勝手にくたばればいい。
主犯はどうするか?とびっきり残酷な方法で処刑してやらなきゃ気がすまないな、ああ、そうだ、良いことを思いついた、こいつも犬にしてしまおう。犬を虐めた罰に犬になってもらおう。でもこんな男なんかもちろん飼う気は更々ないし、飼い犬は一匹で十分だから見せしめに闘犬とでも戦わせてやるか。犬対犬だ、実にフェアな闘いだよな。
それから数週間後、切り落とされた手足の傷もろくに癒えてないこの男は僕と腹心たちとの宴の余興に凶暴な闘犬と戦わされてぐちゃぐちゃに食い殺された。
あははは、無様だなあ、笑いが止まらない、お腹が痛い、あはははは、あははは、どうだ?おい僕の犬、僕の足元でうずくまってないでお前も見ろよ、お前は僕に慈悲をかけてもらって本当に良かったなあ、あんな悲惨な死に方したくはないだろ?あはははははははははははははははは…。


ちっとも面白くない。



ある日の散歩中に急に犬が倒れた。なんだまた転んだのか?久しぶりじゃないか。でも今度は起き上がれず倒れたままだった、脅してもすかしても動こうとしない、いや、違う、動けないんだ。よく見たら顔色が真っ青だった、それに気がついた僕はゾッとして「獣医を呼べ!今すぐに!」と誰に言うともなしに命令した。ひどい熱があった。多分ずいぶん前から具合が悪かったんだろうけどこいつはそういうことを喋れないから。僕は「獣医」に絶対に治せときつく命じた、死なせでもしたらぶっ殺してやるつもりだった。いつもの犬用の寝床ではなくベッドに寝かせてつきっきりで看病させた。僕もずっとそばについてた、そしたら側近に不思議な顔をされた。そんなことは別にどうでもいい。なぜかそうしたかったんだ。なんだか、そうしていると思い出したくないようなことを色々と思い出してしまって、僕は無性にどうしようもなく切なくなって一旦付き添いの者達を全員さがらせた。苦しそうに眉を寄せて荒い呼吸を繰り返している意識のないこいつに寄り添って「早くよくなって」と呟いた。胸が苦しい。本当にらしくないとは自分でも思ったし回復したっていつもの人扱いされないみじめな日々が待ってるだけだっていうのにな。
今更。
僕は僕が何を望んでいるのかもうよく分からない。


最近ずっと僕はなんだか変だ。妙にイラついている。些細なことで突然カッとなって周囲に当り散らして自分でも理不尽すぎると思うようなことを命令したり酷い時には言いがかりも甚だしいような理由で奴隷を突然処刑したりするものだからこの頃では僕の側仕えの者達が明らかにビクビクしているのが分かる。それに夜もあまりよく眠れない、眠ってもなんだか得体の知れない妙な怖い夢ばかり見る。怖い?この僕が?
さすがに僕自身も変だと思ってたし側近にもいよいよそう言われた。それで僕は医師の診察を受けることになった、でもなんだかどうでもいいや。医者がなにか言ってるけど頭に入ってこない、精神が不安定な状態でどうとか今日から薬を飲むようにとかなんとか言われたけどよく覚えてない、ていうか御託がうるさい、いいかげん黙ってくれないかな。殺すぞ。
夜になって眠る時間が来た、今日は眠れるかな?なんだか疲れた。側仕えの下女が僕に数種類の薬と水を持ってきたけど、この下女がどうも震えてるような気がするのはただの気のせいだろうか?
薬。くすり。なんだか色とりどりの。なんの薬だっけ?
僕がぼんやりと聞くと下女はどもりながら精神安定剤と睡眠薬だと答えた。精神安定剤。それを聞いた僕はなぜだか急に頭に血が上った。「馬鹿にするな!僕は病人じゃない!」怒鳴って差し出されたトレーをひっつかんで下女に投げつけた。薬も水の入ったグラスも床に飛び散った。下女は大して痛くもないだろうに引き攣った短い悲鳴を上げてその場にへたり込んで動けなくなってしまった。馬鹿にしやがって。馬鹿にしやがって。僕は怒りに任せて机の上にあるものを全てなぎ倒した、テーブルクロスを引っ張って引きずり落とした、グラスを拾って壁に投げつけた、それでもまだ衝動が治まらなかったので壁に掛かってる絵画や肖像画や豪奢なタペストリーを片っ端から引っぺがしてはところかまわずぶん投げた。あまりの騒ぎに下女は完全に腰を抜かしていたし衛兵も何事かと飛び込んできたけど誰も僕を抑えることは出来なかった。ひとしきり暴れて肩で息をしながらもう一度怒鳴った「あいつを連れて来い!あいつを、犬だ!僕の犬を連れて来い!」なんだか無性に逢いたいんだ。お願いだから。
すぐに犬が鎖につながれていつもどおり四足でやってきた。その目はいつもと同じように少し下を向いたままで僕の方を見ようともしなかったけど別にいいんだ、ああ、ああ。僕は犬の側に寄るとかがみこんでその頭をそっと撫でた。なんか手が震えた。そんなことをするのはおおよそ初めてだったから多分周りの奴らも内心驚いてただろうけど僕自身も少し驚いてる、犬も僕の手が触れた瞬間一瞬ぴくっとしたけど別にそれ以上の感情は表さなかった。そうしてこいつの頭を撫でているとなんだか妙に嬉しくなった、安心した、気持ちが安らいだ、さっきまでのどうしようもない怒りがすうっと消えた。こんなのは久しぶりだった。なんだろう、正直に言うと今にもこいつにすがり付いて思いっきり泣きたい気分だったんだけどさすがにそれはあまりにも僕らしくないと思ったから我慢した。でも思い出した。僕は周りの人間を同じ人間だと思ってなかった、ずっと、物かなんかみたいに思ってた。でもこいつだけは。

彼だけは違ったんだ。
最初に見たとき初めて同じ人間を見た気がしたんだった、ああそうだ、好きだったんだ、本当に好きになったんだった。彼を。
いつの間にか彼が顔を上げて僕の顔を見ていた、ああ、どれくらいぶりかなあ、こうやって目を合わせるのは、それが僕が意識せずに涙を流していたからだとしばらく気づかなかったけど見てくれてる、僕を見てくれている。
その目が本当に大好きだったんだ。大好きだ。


僕は正しくなかった。



彼は前の世話役だった男がリウマチだかなんだかで勤められなくなってその代わりにやって来たんだった。前の世話役は実際もういい年だったし、確かその男の孫だったか親戚だったか、そんなことを言ってた気がする。でも僕にとっては所詮召使なんて道具でしかなく極端に不愉快で使い心地が悪いモノでなければ別に誰でもよかったんだ。
でもなんだか、初めて彼に逢ったとき、なんていうか、上手くいえないけど「あ、違う」って感じたんだ。これは、このひとは、ただの道具じゃないって。
確かに彼は容姿は整っていたけど見た目がきれいな者なんて宮中にいくらでもいるしそんなことが要因じゃないと思う。ただなんだか一目見てすごくびっくりしたのを覚えてる。
最初は驚いて、だから気になって、それで戸惑いもしたけど、もしかして苦手なのかもとも思いもしたけど結局気がついたらすごく好きだった。
でもなんでかなあ?確かに彼の立ち振る舞いはすごく上品できれいだったけど僕の前では大抵みんなそうだし、彼の何がそんなに他と違うのか僕にも実はよく分からない。
でもきっと彼の手はあたたかいんだろうなって思ってたらある日偶然その手が僕に触れて、やっぱりとてもあったかくて、ああやっぱりとも思ったけどすごく新鮮で。
なんだか僕には人間はみんなそうなんだと言われても得心が行かないんだ。現にそんなことがあってから試しに召使の数人に偶然を装って触れてみたけど全然新鮮さなんて感じなかったし、確かにあったかくはあったけど彼のように心地よいあったかさじゃなかったし。
違うんだよなあ。
なんか違うんだよなあ。
それから僕は無性に彼に触れたくて触れられたくてたまらなくなった。
そうならそう言えばいいのにどうしても言えなかった。恥ずかしくて。
この僕が?
王様なのにね。
可笑しい。



いつの間にか僕は彼の首に手を回して抱きついてた。
あれ?すがり付いて泣くのは我慢するんじゃなかったっけ?でももういいや。
そういえばこんなに近付いたことなんて今までなかったなあ。ずっと側にいたのに。
触れたかったんだ、本当は、ずっと、場違いなんだけどああなんか今幸せだなあと思った。
だから気付かなかった。
彼が僕の首に歯を立てるまで。

歯が食い込んだ、僕の首に、痛みはあんまりなかった、けど肉を食いちぎる音がハッキリ聞こえた。
血が溢れ出した。
すごい量の。
それがとても普通のことのように行われたんで周りも気付くのに少し時間がかかった。
音が急激に遠ざかってなんだか全てが遠くに聞こえる。
誰かの怒声が聞こえた、彼と引き離される。
僕は反射的に噛み千切られた首を手で押さえて立ち上がって二、三歩後ろによろめいた。生ぬるい血がどっと。
誰かが僕を抱きとめて早く医者を、と叫んでる、すぐ足から力が抜けて立ってられなくなった。

いいんだ。
治療なんかしなくていい。
やめろ、助けるな。
彼が望んでるんだ。
僕の死を。
だから助けなくていい。
彼が望んでるんだから一つくらい願いを叶えてやってもいいじゃないか。

でももう体も動かないしまともな声も出なかった。
足先とか指先が急に冷たくなってきた、けど体の中だけが妙に熱くて。

視界の端に彼が数人の衛兵に押さえつけられてるのが見えた。
やめろ。
やめろ。
やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ。
殺すな。
殺すんじゃない。
殺さないで。
お願いだから殺さないで。
そのひとをころさないで。

僕は必死にそう叫んでたのに喉からは変なうめき声みたいなのしか出なくて。
ああ僕は何にもできないんだなあ。
なんて無力でちっぽけな存在なんだろう僕は。
好きな人一人助けられないのか。
情けなくてみじめで今度は別の涙が出てきた。
悲しいなあ。
昔、僕は強くて偉くてなんでもできたと思ったのに、そんなことは全然なかったんだ。
今更謝っても許してくれないだろうなあ。
でもごめんなさい。とても好きでした。
そんなことをいうのもおこがましいよな。
今までしてきた悪いことが全部我が身に返ってきたんだ、でも今自分のことより彼の方が心配だった、それでも手も足も出ない。


もしも。


もしも助かってしまったら今度は僕が自分で自分の手足を切ろう。
だってせめてそれくらいはしないと。
僕のしてきたことの千分の一でも償わないと。

僕はどうかどうか僕なんか助かりませんようにと最後に願って意識を手放した。


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