Voiceless screaming この一介のストリートチルドレンだったシュウイチを何の気まぐれだったのか、拾ってやったのは俺だ。今ではその理由さえ思い出せもしないが。 この頃は難民崩れの浮浪児など腐るほどいたし、彼らは徒党を組んで一種のコロニーを作って生活していたらしいがこの少年は彼らの仲間ではなかったようだ。 食べ物や小銭を求めて集まってくる浮浪児たちの向こうに、こちらに全く感心を示さず、ただ白い猫と戯れていた子供がいた。 それがシュウイチだった。 その光景はどこか浮世離れしていたように思う。 「変わったガキだ」というのが第一印象だった。 犬猫だって同じだろう、一度「飼い主」となったからには最後まで面倒を見る。それが果たすべき「責任」であるから。 俺は、この気まぐれで拾った彼に、雨露を凌げる場所を提供し、生きていくのに必要な「技術」を教えることにした。 だからと言って恩を売るつもりなんて全くなかった。ただ、それはここに住まわせてやる以上当然のことだった。 俺は今はしがないジャンク屋だ、だが元陸軍工兵部隊であったその腕前は中々のものだと自負してはいた。 そしてこの子供のことを、かつて仲違いして今や行方知れずとなった実の弟に代わり、彼が大人になって立派に一人立ちできるようになるまで見守ってやるつもりになっていた。 それが、自分の元を離れて行った弟にしてやれなかったことへの僅かな償いになるような気がしていた。 少年の薄絹のような肌の感触。 細く繊細な手足。 あと数年経てば永久に失われてしまうであろう、すべらかな頬。 自分を何の疑いも持たず一心に見つめてくる、長い睫毛に隙間無く縁取られた、黒い水晶の瞳。 自分は自制心の強い人間だと思っていた。 だが、それは根拠のない自惚れだった。 俺と弟が物心付いた時には両親などというものは存在しなかった。 二人とも先の大戦で死んでいた。 だから俺が、兄であり親となって、この血を分けた愛しい存在を何が何でも守り抜かなければればならないのだと思っていた。 それこそどんな最低な仕事だって、人の足元に這い蹲るみじめなことだってなんだってした。 そして俺は18歳になると同時に軍隊に入隊した。 弟は、それを愚かな行為だと言った。 自分たちを苦しめた国に忠誠を誓い、時とあらば捨て駒にされる軍人などになるとは愚かにも程がある、と。 だが、その時の俺に他に選択肢があっただろうか。 正式な軍人であれば一定の給金は保証されていたし、万が一自分が死んでも弟には成人するまでは最低限の遺族年金が支給される。だから自分の判断は正しかったのだと信じていた。 しかし弟にとってはそうではなかったようだ。 いつしか弟はことあるごとに反発するようになり、俺が軍隊に入隊した年齢と同じ18歳になったある日、俺の前から姿を消した。 全ては弟のためだと信じてここまでやってきた。 だが弟がいなくなって初めて全てが空しく感じた。 シュウイチというこの少年は、弟とは正反対の性格だった。 「純粋」を通り越して、半ば「崇拝」に近いくらいに自分を慕ってくれている。 時としてこっちが申し訳ない気分にさせられるくらいだ。 だがシュウイチは物覚えがいいので助かる。 その上、普通の子供と違ってあれが欲しいこれが欲しいというような「要求」を全くしない。 暖かい寝床や食事をこちらが与えさえしなければ床の上でも平気で寝ただろうし、ほっといたらなにも求めないまま餓死しかねないようなかなり変わった子供だった。 全く。俺の保護を運良く受けられなければこいつはとっくの昔に野垂れ死んでいただろう、それはもう間違いなく。 シュウイチは、徹底して反発した弟と違い、まるで俺だけが世界の全てだとでもいうように、まるで俺を神か何かのように、本心から尊敬していた。 その瞳に偽りはない。 なんて無垢な子供だ。 俺はずっと実の弟であるかのように可愛がっていたつもりだった、俺なりに。 己の浅ましさ、醜さ、唾棄すべき欲望。 いくら、珍しく理性が歯止めをかけないほど酔っていたとはいえ、シュウイチがまるで抵抗の意を示さなかったとはいえ、あんなことをしてしまった自分がどうしようもなく情けない。 いや、そんな陳腐な言葉では俺の心の内を言い表すことは出来はしない。 たとえ、世界中の人間からありとあらゆる侮蔑や罵声を浴びせかけられてもまだ足りない。 今更俺が腹を切って詫びたとて、この無垢な存在を傷つけてしまった事実は消せない。 「ねえ、ナチさん、これでいい?」 昨日運び込まれた最早骨董品とも呼ぶべきオート三輪の修理を依頼されたので、教育の一環としてその部品の一部をシュウイチに修理させていた。 「どれ、…うん、お前は本当に物覚えの速いヤツだな、完璧だ」 褒めてやるとシュウイチはまるで欲しかったおもちゃを買ってもらえた普通の子供のような顔をして喜ぶ。 シュウイチは本当の意味で「足ることを知る」稀有な人間なんだろう。 いつか、シュウイチに「お前はどこから来たんだ?」と聞いたことがある。 シュウイチは少し考えるそぶりをして、そして答えた。 「真夏の国から」 真夏の国か、変わった答えだった。 それがどの国でなんという地名だったのか本人にもよく判らないらしい。 だがこの街では真夏などと呼べる時期はごく短い。 この頃は冷え込みも厳しくなってきた。 「そろそろ雪が降るだろうな」 毎年の事ながら雪には苦労させられる。 半ばうんざりした調子で何気なく口にしたその言葉にシュウイチがただでさえ大きな瞳を殊更真ん丸くして尋ねた。 「雪が、降るの?」 そりゃそうだ、これだけ冷え込めば。 その時シュウイチは珍しく食い下がってきた、本当に珍しかったのでよく覚えている。 「いつ?ねえ、いつ降るの?雪って真っ白ですごく冷たいんですよね?僕も見れるかな?」 シュウイチが頬を上気させて興奮気味に話している。 ああ、そうか、とそのとき前にこいつが言っていたことを思い出した。 真夏の国から来たと。 おそらくこいつは雪なんて見たことがないんだろう、だが俺は毎年この季節になると雪で苦労させられることが多いのであまり良い印象は持ち合わせていない。 しかしシュウイチにとっては勝手が違うようだ。 5分に一回は窓を眺めてはあの白いフワフワとしたものが天から降り注ぐのを心待ちにしている。 その姿がなんだか妙におかしい。 「…まあ降るのは夜中過ぎくらいからか、街が一面白に覆われるぞ、でもな、お前が思ってるほど雪なんて楽しいものでもないぞ」 シュウイチがあまりにも雪に対して過大な期待を持っているようなのであらかじめ釘をさしておく、別に悪気があるわけじゃない。 実際、雪の後始末は大変な苦労が伴うし昼溶けてまた夜固まれば路面は氷の道と化し危険極まりないものとなる、決していいものではないからだ。 「そうなんだ、雪は大変なんだ」 そうはいいながらも視線は窓に釘付けのまま奇跡を待つように空を見上げ待ち焦がれるシュウイチの姿を、呆れ半分、微笑ましさ半分に見ていた。 まったく可愛いもんだ、しかし、確かに、自分もほんの子供だった頃には雪が降るのを楽しみにしていたこともあったかもしれない。 シュウイチは、見かけは13歳の少年でも、人一倍物覚えが早くとも、精神的には無垢な赤子と大差ないのかもしれない。 なぜそんな純真さが生まれたのだろう。 不思議に思うことがあった。 シュウイチのいう「真夏の国」とはどこなのだろう、南国出身にしてはシュウイチの肌は比較的白い方だ。 そしてシュウイチには「なんでこんなことを知ってるのか?」と大人の俺でさえ驚かされるような知識を持ちえているかと思えば「なんでこんなことすら知らないんだ?」と逆の意味で驚かされることもあった。 なによりその「疑う、偽る、妬む」などという所謂悪徳に部類される感情を全く持ち合わせていないことが不思議でならない。 たとえ誰に教えられなくとも、いや、人間として生まれ人間に囲まれて育ったからには当然のように正の感情ばかりではなく負の感情も一緒に育つはずなのに、シュウイチにおいては違っていた、別にシュウイチに何らかの発達障害があるわけではない、それどころかかなり頭のいい部類の人間だろう、しかし、当然のように育つはずの何かが決定的に欠けていた。 さらに悪いことには俺が言う事は全て正しく、俺が否定るすものは悪いものなのだとあまりといえばあまりに単純すぎる基準を元に全ての判断を下すようになってしまった。 困る、というほど深刻ではないがちょっと複雑な心境だった。 シュウイチは、どこでどんな風に育ち、どうして俺のところにきたのだろう。 翌朝、思ったとおり見事に外は一面の銀世界だった。 俺はドアを開けてこの一見すれば美しいが実際は厄介なだけの光景にため息を付いた。 やれやれ、せめてこの自宅兼工場の周りだけでも雪を退かさないことにはどうにもならない、毎年骨が折れる。 ふと、いつも早起きなシュウイチの姿が見えないことを不思議に思った。 もしかしたら昨夜いつ雪が降るかと期待しすぎてなかなか眠れなかったのかもしれない。 雪かきする前に一度まっさらな雪原を見せてやろうか?親切にもそんな風に思い、シュウイチを起こしに行こうかとドアを閉めかけたその時だった。 何か、工場のシャッター前に異様なものが落ちている。 いや、正確に言うと倒れている。 「シュウイチ!?」 その倒れているものの正体を認識するや俺は慌てて駆け寄った、なにせシュウイチは雪の上に突っ伏したまま、ピクリとも動かないのだ。 なんだ?まさか二階にある部屋の窓から落ちたのか?それともよもや雪を見たいあまり昨夜からここで寝てたなんてことは…いや、体の上に降り積もってないからそれはないか。あるいは嬉しさのあまり卒倒したとか、そんなアホな…いや、こいつならありえる。 抱き起こして呼びかけた。 「おい!シュウイチ!大丈夫か?俺が判るか?」 しかし、俺の焦燥などどこ吹く風といった風情でシュウイチは大きな瞳をぱっちりと開いていつものように挨拶した。 「あ、ナチさん、おはようございます」 俺は軽い脱力感を覚えた。 お前、おはようございます、じゃないだろ。 「何してるんだお前、寝巻きのままで、どうしたんだ?倒れたのか?怪我は…」 「え?」 まだ動揺している俺を見てしばしきょとんとした表情をしていたがなんとかこちらの言いたいことは伝わったらしい。 「ああ、うん、別に怪我とかしてないです、ただ目が覚めたら本当全部真っ白でしょ?嬉しくなっちゃって、雪があんまりきれいだから思う存分堪能してたんです」 その答えに今度こそ脱力した。 堪能ったって…お前ただ雪の上に突っ伏してただけじゃないか、周りを見渡しても雪が踏み荒らされた様子がないということは本当に雪に顔を埋めてただけということか?理解を超える。 「でも想像してた以上に冷たいんですね、だんだん手足の感覚がなくなってきちゃった、ていうか動かないかも」 まて、お前、一体どれくらい雪の上に倒れてたんだ? 「ええと、まだ日が完全に昇ってなかったから多分2時間くらいかな?」 「この大馬鹿!」 本気で怒鳴った、時々思う、実は真性の馬鹿なんじゃないか?こいつ。 実際どれくらいの間ああしていたのかは定かではないが、本当にシュウイチの体は冷え切っていた。 よく見れば顔も唇も幾分青ざめている。 「あー!まったく!」 風邪でも引いたらどうするんだ、いやそれ以上に手足が凍傷にでもなったらシャレにならない。 急いでこいつを家の中に担ぎ込んで毛布で何十にも蓑虫の如くにぐるぐる巻きにしてやった。 「いいかシュウイチ!手足の感覚がまともに戻るまでそこで暖かくしてろ!朝飯作ってくるからそれまで工場には顔を出すな!」 「はい、ナチさん、ごめんなさい」 素直に謝りはしたが、本当には何に対してどういう迷惑をかけたのかは判ってはいないだろう。 もしかしたら朝食を作ってもらうことやすぐに工場に出て仕事を始められないことに対して謝ったのかもしれない。 そうじゃなくて、心配してんだぞ、俺は。 とりあえず雪かき前に久々俺が自分で朝食の準備をした、いつもはシュウイチがやっていることだが。 熱いスープとトーストと目玉焼きを作ってシュウイチに持って行ってやった。正直に言えばあまり料理の腕には自信がないが。 「おい、シュウイチ、朝飯だぞ」 「あ、ナチさん、余計な手間をかけさせてごめんなさい、でもありがとう」 ストーブでガンガンに温めた居間兼事務所のお世辞にも上等とはいえないソファの上で蓑虫状態にさているシュウイチが上体を起こそうとがんばっていた。ムダだムダだ。 シュウイチを抱き起こして座る格好にしてやった。 「…あの、ナチさん」 「なんだ?」 「これ、もう少し緩めてくれません?これじゃ手が出ないし」 「アホ、手足は温めてろといっただろう、ほら口をあけろ」 いわゆる、はいあーん、である、何をやっているのだろうか俺は。 スープをすくった匙を顔の前に突き出されたシュウイチは珍しく戸惑っているようだった、勿論口には出さないが。 こんなことまでしてもらっていいのかな? そんなことを考えているのであろう上目遣いで俺と匙を交互に見ていた。 やがて上体を少し前に倒し、俺が差し出したスープに一口つけた。 「熱っ」 思わずシュウイチが顔を背ける。 あ、しまった、ちょっと熱すぎたか。 「悪い」 そう言って今度は掬ったスープに息を吹きかけてある程度冷ましてやってからシュウイチの口にそれを運んでやった。 シュウイチの口の中に入った匙が彼の前歯に軽くぶつかってカチと小さな音を立てた。 それを飲み下すとシュウイチは本当に嬉しそうな笑みを浮かべて「あったかい」と言った。 何故かこのとき、俺は妙な気恥ずかしさを感じたというか心拍数が跳ね上がったような気がした。 なんだか時々、こいつは無性に俺の保護欲をかき立ててくれるというかなんというか…ううむ、なんとも口では説明し辛いのだが…。 そうやって雛鳥にエサを与える親鳥のように何度もシュウイチの口にスプーンを運んでやった。 食べさせ終わるとこいつの拘束を解いてやり、その手足の状態を見た、まだ冷たいが凍傷になることはなかったようだ。 だがしきりにシュウイチは手足を痒がっている。 「ねえナチさん、なんか手足が変、ムズムズして痒い」 それはそうだろう、しばらく末梢に血液が回ってない状態でいたのだから、そこに急に暖かい血が流れればむず痒さも襲ってくる。或いはしもやけくらいにはなるかもしれないな。 「痒くても掻くなよ、無駄だから」とだけ言いまたソファに寝そべるように命じ、先ほどよりは多少ゆるい拘束で毛布で全身を再び巻いてやり「俺の許しが出るまではおとなしくしているんだぞ」と念を押して部屋を出た。 雛鳥にエサを与える親鳥のように、か、まあ確かにあいつはまだ空も満足に飛べない雛鳥みたいなものだ。 しばらく一緒に暮らしてきてあいつの心のパターンがだいぶ読めるようになってきた気がする、今、あいつが考えていることは恐らく、俺に迷惑をかけてとても申し訳ない気持ちでいっぱいなんだろうな。 でも、何が何でも今日は休んでもらう。 シュウイチは俺の腕の中で声を押し殺していた。 自分の手を噛んで必死に。 苦しそうな吐息だけが絶え間なく漏れている。 だからその手をそっと退けて、代わりに俺の指を口の中に差し入れた。 でもシュウイチは歯を立てなかった。 いいんだ、こんな最低のクソ野郎の指なんか食い千切れ。むしろそうしてくれ。否定してくれ。見損なってくれ。軽蔑してくれ。抵抗してくれ。我慢しないでくれ。 頼むから。 俺の指は最後まで噛まなかったくせに自分の手は血が滲むほど強く噛んでいた。 一通り雪かきを終えると裏庭には堆い泥交じりの雪山が出来た。さすがにこれをきれいだとはシュウイチも言わないだろうが。 工場のシャッターを開けてようやく仕事開始だ。 さて、仕事は山積み、というほどでもないが暇を持て余すほどでもないから早速取り掛かるとする。しかし雪かきは骨が折れる、もう既に軽い疲労を覚えている。だから雪は嫌なんだ。 とりあえず修理を頼まれていたトラクターのモーターベルトを交換して、エンジンを診てみる。あーこりゃ酷いもんだ、オイルは漏れてるしガスケットにはひびが入ってるし配線関係も危うい。とりあえず及第点までに戻すには相当の手間がかかりそうだ。もうこれは買い換えた方が早いんじゃないか?まあこれも俺の仕事だからそんなことを客に勧めて客が素直に忠告に従ってくれたら仕事がなくなる。 手をオイルまみれにしてオンボロエンジンと格闘すること1時間。 そういやシュウイチのやつはどうしてるかな?簀巻きにしてきたからもしかして便所に行きたくなっても行けないんじゃないか? あ、しまった。失念していた。困ってるかもあいつ。 それにしても自分が教えたこととはいえあいつのいかにも繊細そうな指先を俺のように機械油まみれにするのは似つかわしくないのかもしれないな。 ともかく一度様子を見に行ってやらないと。 油まみれの手を拭いて工場を出て居間に続く廊下を歩いて行くと、案の定、でかい芋虫が転がっていた。 「おいシュウイチ」 そのクリーチャーを軽く爪先で小突いてやる。 うつ伏せになっていたシュウイチがぱっと顔を上げて俺を見た。 「あ、ナチさん、勝手に出てきてごめんなさい、でも、あの、トイレに行きたくなっちゃって…」 やっぱりな。 「悪い、そういうことすっかり忘れてた」 そりゃそうだ、ただでさえ体が冷え切ってたんだし、しかしある意味愉快な姿だ。ここまで出てくるのに本当に芋虫状態で這ってきたんだろう。ドアノブをどうやって回したのかが気になるが。 とりあえずシュウイチを拘束から解いてやり自由にしてやった。小走りで便所に駆け込むのを見て思った、あいつ相当我慢してたのかもな、それなら俺を呼べばいいのにそういうことをしないあたり、妙なところで俺に対しては謙虚なのがよく分かる。 俺は実際そんな大した人間でもないんだ。 あんまり尊敬されるとこっちの気が引ける。 かのオンボロエンジンをなんとか、まあ一応は動くけどこれを運転するのはお勧めできないぞ、と呼べる状態にどうにか戻してあっという間に一日が終わった。 今日一日は強制的に休ませたのですっかり元気なシュウイチはキッチンで夕食を作っていた。 こいつは機械いじりだけじゃなく料理も上手い、大体にして料理下手な俺から教わっておいてなんで上手くなるんだ?まあそれも才能なのかもしれないが色々と計り知れないやつだ。 シュウイチの作った飯を食いながらなんだかいつもより疲れたような気がするなと思った、そういえばただでさえ厄介なボロトラクターを修理しただけじゃなくて雪かきもしたんだったと思い出した。 まったく雪ってやつは。 しかし雪にまつわる珍妙な思い出を一つ残してくれたのはシュウイチだ。 なんとなく俺の向かいでおとなしく食べているシュウイチを見た。 今日、汚すのは勿体無いと思った細い指がフォークを握っている。 手が動いて皿の上の食い物を刺す、それを口に運んで、咀嚼して、飲み込む、その一連の動きが何度か繰り返されるのをしばらく見ていた。 ふと、シュウイチが顔を上げて俺を見た。 「ナチさん?」 まだ若干甲高い少年の声で呼ばれてようやくハッとなった、なんだろう、目が離せなかった。 「僕なんか変な食べ方してた?」 疑問をもたれるのも尤もだ、何をボーっとしてたんだ俺は。 「…いや、別に」 挙動がおかしいぞ。別にこいつが変な食い方してた訳じゃない、むしろ上品でさえあるのに。とてもお世辞にも上品とはいえない俺の側で生活してるとは思えないくらいなのに。 「ちょっと今日は疲れたんだ、ほれ、なんだ、雪の始末もしたから」 そうだ、疲れてたんだろう。 「ねえナチさん、僕におかしいところがあるなら注意してね、ほら、僕ってなんかちょっと、ええと、世間知らず、だっけ?だから」 以前こいつの色々と不可思議な言動を見て確かに「世間知らず」と言ったことがあったかもしれない、まあそれは事実だが。 「本当になんでもない、別にお前はおかしくない」 「そう?」 そう言ったきり会話が途切れた。 久しぶりにあの頃の夢を見た、銃声と爆音が響く戦場の夢、目の前で仲間が撃たれた、ヘルメットに穴が開いていた。ここでは何かを正しくこなしていれば生き伸びられるという保障が何もない。殺さなければ殺される。でもなんの為に殺し合いをしているんだろう。俺も撃ち返した。弾が当たって即死した人間とまだ命がある人間とは倒れ方が違うからすぐ分かる。 一体何人くらい殺しただろうか。 何人の戦友を失っただろうか。 俺が埋設した地雷で何人死んだだろうか。 そして今もまだ殺し続けている。 罪の意識があるのかどうか今でも分からない、けれどその無自覚の罪の重さに耐え切れず目を覚ました。 いつか弟の言った通り、俺は本当にどうしようもない愚か者なのかもしれない。 「わあ」 俺が昨日積み上げた泥交じりの雪山をなんでか目を輝かせて見つめているシュウイチがいた。そんなものちっともきれいじゃなかろうに。 「こんなに降ったんだ、あ、ナチさんご苦労様でした、大変だったでしょ?お手伝いできなくてごめんなさい、でも本当にこんなにたくさん空から降ってきたんだ」 こんな汚い雪でもまだ感動するのか。いや、雪そのものより雪が降るという自然現象に感動しているのかもしれないな。 そういや昔観た古い映画にあったな。天使が主人公だった、ピーター・フォークもちょっと出て来た気がする、天使は人間の女性に恋をして人間になるが、人間になった元天使はコーヒーを飲んで、それの香りだとか味だとか温かさだとかではなくそれがコーヒーであることそのものに感動していた。あれに似てる。 シュウイチ、お前、ひょっとして天使だったのか? 「ねえナチさん、また雪降る?」 シュウイチが年齢相応の好奇を心丸出しにして尋ねる。 「ああそうだな、予報では今週の木曜あたりにまた降るらしいな、全く厄介だ」 片付けてもまーた降りやがる、この時期は仕方ないとはいえ迷惑極まりないことだ。 「じゃあ今度こそ降るところちゃんと見よう、一昨日は降ってくる前に寝ちゃったから見てないんだ」 「おい、また手足が動かなくなるまで雪の中にいる気じゃないだろうな?」 嫌な予感がする、しんしんと降り続ける雪を凍えるまで外で見上げながら眺めているだろうこいつの姿が容易に想像できた。 「だめ?なるべく短く切り上げるから」 やっぱりな、こいつそういいながら放っておいたら何時間でも空を見上げてるぞ、きっと。 「…部屋の中からならいい」 最早妥協するしかない。 久しぶりに馴染みの酒場に顔を出した。 バーテンダーのレイラがその美貌を不機嫌に歪ませて乱暴にウィスキーが注がれたロックグラスを俺の前に置いた。 「ずいぶんと顔を見せなかったわねナチ、さぞかし忙しかったんでしょうね」 気まずい、えらく不機嫌だ。 「もういっそこっちから乗り込もうかと思ってたわ」 「悪い…」 彼女とはもう長い付き合いになる、彼女はなんでか俺に惚れてるらしい。こんな男のどこが良くて。 レイラとは、恋人とはとても呼べないくらいの淡い関係だ、でも友人以上ではあると思う。ただ俺自身のあってないような葛藤の所為でつい彼女に対して若干の苦手意識を持ってしまうのだが。 「そういやナチ、あんた最近男の子を拾ったんですってね、可愛い子らしいじゃない」 その言葉には妙な含みがあった気がしたがそれに気が付いたのは後になってからでこの時は愚鈍にも気付かなかった。 「ん?ああシュウイチのことか、まあ物覚えの早い、なかなか賢い子供で役に立ってる」 何の気なしにそう言うとレイラはなおいっそう顔を歪めて幾分トーンの落ちた声で言った。 「あ、そう、本当なんだ、ふうん、それでめっきり足が遠のいてたってわけ?」 「あ?いや別にそういうわけじゃないが?」 実際シュウイチのこととは全然関係ないので素直にそう言ったのだったが、彼女はこれ以上はないくらい不機嫌をあらわにした。 「もういいわ!あんたのところのその美少年くんによろしく!一度連れて来なさいよね、ご飯くらいおごるから!」 レイラは啖呵を切ると乱暴な足取りでカウンターの向こうに消えた。 なんなんだ…。 女心の複雑さはこの歳になっても理解しがたい、俺が鈍感すぎるだけなのかもしれないが。 あれから2年シュウイチと一緒に過ごしてきたが、毎年雪が降る季節になるとこいつは目に見えて浮き足立ってた。 ずっと雪が好きだった。 いくつになっても純粋さを失わなかった。 シュウイチも15歳だ、でもまだまだガキだ、俺から見れば。 そういえばこいつは自分の誕生日を知らなかった、俺も記念日とかには疎いがそれでもそんなことすら知らないこいつをつくづく不思議に思った。 というよりそもそも誕生日というものが存在するのを知らなかったらしい。 出会って間もない頃、あるときカレンダーを何気なく見て自分の生まれた日が近いことに気が付いた、「あー、もうすぐ俺の誕生日だ、あんまりめでたくもないけどな」と言ったら、シュウイチはきょとんとして、イノセントな大きな目で俺を見て訊いた。 「たんじょうびって何ですか?」 さすがに驚いた、知らないのかよ。いや、じゃあお前は今までどうやって自分の歳を数えてたんだ? 「ええと、年が明けたら一歳って数えてた」 まて、その数え方は…。もしかしたらこいつ俺が認識してた年齢より1歳か下手したら2歳くらい幼いんじゃないか?本当にどこでどんな育ち方をしてきたんだこいつは。 平凡な日常に突然非日常という小石を投げるシュウイチはある意味新鮮さをもたらしてくれる珍妙で稀有な存在だった。それは今でも変わらないが。 だから俺はこいつに誕生日を与えてやった、この話をしたその日、10月15日。 それの意味するところなど最初は理解できなかっただろうが次第にそれを喜ぶようになった、それからというもの毎年カレンダーに俺と自分の誕生日に赤いマジックで丸を描いてはなんだか満足げにうんうんとしきりに頷いていた。 そういやレイラに一方的に怒られてからちょっとして彼女の勤める酒場に、買い物帰りにシュウイチを連れて顔を出したことがある。 ただでさえ不義理を重ねているのにこれ以上あまり横着も出来ないだろうと思っていたから。 俺とシュウイチが店に顔を出すと顔馴染みの女たちが一斉にシュウイチを取り囲んだ。 「この子がナチの?」 「シュウイチ君だっけ?可愛いわねー」 「ナチってばやっとお披露目する気になったのね」 「肌とかすごいすべすべ、羨ましいわあ」 「やだ、本当にきれいな子じゃないの」 女たちは口々にシュウイチの評価を好き勝手に述べた。 人見知りはあまりしないシュウイチだがさすがにこの攻勢には怯んでるんじゃないかと思ったら意外にも落ち着いていてあまつさえ「ありがとう、でもきれいっていうならお姉さん達の方がよっぽどきれいですよ」などと言いのけた。 女たちは一瞬顔を見合わせた後黄色い声を上げて色めき立った。 「やだーこの子ってば将来有望!」 どこでそんな口説き文句を覚えたんだ、やはり謎の多いやつだ。 シュウイチは未成年なので酒は飲ませられないがレイラが本当にこいつにランチをおごってくれたのでカウンター席の端で一人でおとなしく食べていた。時々女たちからちょっかいを出されていたが。 俺はしばらくぶりにレイラと二人でまともにボックス席で話をしていた、大した内容のある話でもなかったから細かい会話などもう覚えてないが彼女とはこのまま付かず離れずいい友人のスタンスでいたいと思ったのは覚えてる。俺はよくよく我侭な男なのかもしれない。 シュウイチもだいぶ機械に詳しくなって俺が指示しなくともある程度の機械の組み立て、修理くらいは自分一人で出来るようになっていた。 もう立派な「助手」と言っても過言じゃなくなった。 「シュウイチ、そこのレンチ取ってくれ」 「はい」 シュウイチも慣れたもので振り返りもせず後ろ向きにそれを放り投げて、俺も難なくそれをキャッチする。 こういう瞬間がやけに心地いい。 一日の仕事が終わって飲むビールは美味い。俺は結構な酒飲みだがアルコール度数の低いビールでも一日の終わりに飲むと何故か美味い。 今まで一切興味を示さなかったのにこの日珍しく、シュウイチが「お酒って美味しいんですか?」と訊いてきた。 どういう風の吹き回しだろう、俺があんまり美味そうに飲んでるからか? シュウイチはまだ酒を飲んでいい年齢じゃないが別に俺も法の番人ではあるまいしそういや自身酒を飲み始めたのは15歳くらいからだったなと思い出したのでちょっとしたイタズラ心で「飲んでみるか?」と尋ねた。 そしたら「うん」と頷いたのでこれも人生の経験の一つになると思ってビールの栓を抜いて渡してやった。 人生初の酒の瓶を神妙な面持ちで両手で持ってしばらくにらめっこしていた、そしてシュウイチにしては珍しく恐る恐るといった感じでやっと一口だけ口をつけた。 そして飲み下すと、顔をしかめて一言「苦い」と言った。 「その苦さがいいんだろうが、やっぱりお前にはまだ早いか」 そうだよな、最初はそんなもんだ、だがなんだかその率直な感想がおかしくなってついからかい口調でそんなことを言ってしまった。 するとシュウイチは「そうなんだ」と妙な納得の言葉を口にして、今度はその瓶の中身を一気に呷って止める間もなく飲み干してしまった。 おいおい、そんな飲み方したら。 初めてのアルコールが効いたのかぷはっと息を吐き出すとぶるっと大きく肩を震わせた。 案の定、あっという間に酔いが回ったシュウイチはその場にへたり込んでしまった。 いつものパッチリした目が今は据わっている。 けれどいつになく上機嫌で、「なんか、お酒って面白い」とへらへら笑いながら空になった瓶にもう一度口をつけると逆さまにして最後の一滴まで飲もうとしていた。 こりゃいかん、けどこんなシュウイチを見るのはもちろん初めてでなんだか少し面白かったのも事実だ。 「ふわふわする、酔っ払うってこういう感覚なんだ、なんか気持ちいい、ナチさんもう一杯飲んじゃ駄目?」 意外とこいつ酒飲みの素質があるかも、と一瞬思った。 だがもちろん駄目だ。 俺がそう言うとシュウイチは「ちぇー」と唇を尖らせて少しだけふてくされた。 そんな態度を見るにつけ、なんだかシュウイチは何百時間見てても飽きない豪華でよく出来た万華鏡のような存在だとあらためて思った。 いろんな面を持っていて、キラキラと輝いて、二度とは同じ瞬間がなくて、それは人をそらすことなく、ある意味ものすごい魅力的だった。 しばらくすると今度は眠気が襲ってきたのか酔い覚ましに座っていたソファの上でうとうとし出した。 「眠いのか?」 そう訊くと「うん、なんか眠くなってきちゃった、でもシャワー浴びたいな」とぼんやりしながら答えた。 本当なら酔っ払って風呂に入るのはよくないんだろうが、まあ一日汗をかいた後だし気持ちは分からなくもない。 俺の許しが出るとまだ少しおぼつかない足取りでバスルームに消えた。 俺は空になった酒の瓶を片付けてから、今度はウィスキーを嗜みながら帳簿の整理でもすることにした。 帳簿には俺の字とシュウイチの字が並んでいる、俺の字は大雑把であまりきれいとはいえないがシュウイチのは繊細できれいだ。 あまり事務仕事は好きではないがこれも仕事のうちなのだから仕方がない。 ウィスキーを一口口に含むと芳醇な香りと濃厚な味が広がる。 シュウイチのきれいな字を見ているとつまらない筈の仕事も少しだけ気分良く進められるような気がした。 どれくらい数字とにらめっこしていただろうか。ウィスキーのボトルを1/3も開ける頃になってふと手を止めた。 あれ?そういやあいつやけに長風呂してないか?と気が付いた。 もしかしたら風呂場で寝こけてるんじゃないだろうな。 気になったので様子を伺いに行くことにした。 バスルームのすりガラス越しの扉をノックしてみた、シャワーの音は聞こえる、「おいシュウイチ、大丈夫か?」しかし返事が返ってこない。 いよいよ心配だ。 迷いなく扉を開けた。 シュウイチが倒れていた。 一瞬心臓が止まるかと思った、急性アルコール中毒でも起こしたかと。 濡れるのもかまわずに膝を着いてかがみこんで呼吸を確認してみた。 感謝すべきことに規則的な呼気が漏れていた。 「おいシュウイチ」 肩をゆすってみる。 「うーん」 腑抜けた返事が帰って来た。 要するに正しくは寝込んでいたのだ。 当然裸で。 胎児のように体を丸めて。 心配して安心して呆れると同時にまた心配にもなった。 大丈夫だろうか、倒れこんだ拍子に頭とか打たなかっただろうか。なによりこんな姿で体を濡らしたまま寝ていたら早晩にでも風邪を引いてしまう。 出しっぱなしのシャワーを止めてシュウイチを抱き起こす。 「こら、起きろ」 今度こそ揺さぶってやる。 「うん…眠い…」 一度だけ目を開けたがそれだけ呟くとまた瞼を閉じてしまう。 呼吸を再度確認したが安定していたのでやっぱりただ寝ているだけだともう一度安心した。 脱衣所に運んで乾いたタオルで体を拭いてやる。 それなりに長いこと一緒に暮らしていたがこいつの裸をまともに見たのはこれが初めてだった気がする。 もう15歳なのにずいぶん肌がきれいだ。いや、まだたったの15歳か。頬は皇かで閉じた瞳はやけに長い睫に縁取られている、脚や腕は意外なほど細かった。 まだ子供の域を出ない骨格を柔らかくて薄い皮膚が覆っている。腰が細い。肌の色は白い、けど酒が入った所為か頬だけは血色がいい。体毛もうっすらとしか生えてない。 俺や弟が15歳だったときはどうだったっけ?こんなにきれいだっただろうか?思い出せない。というかそんなの意識してさえいなかったんじゃないか。 全体的には細いくせにやけに手足が長くてそれが妙にアンバランスでいかにも未成熟で、そう、なにか、こう、やけに。 なまめかしい。 言葉にしてしまうととんでもなく危ない。 視線がぎこちなくなる。 俺は何をやってるんだろう?そう気が付いたのはずいぶん時間が経ってからだった。 本当に何をやってる。 風邪を引かせたら大変だと思ってたのに裸のまま長いこといさせてしまった。大体なにをじっくり隅々まで観察してるんだ、馬鹿じゃないのか。 まだ水滴の滴ってるシュウイチの髪を、気が付いてしまった何かいけないことを振り払うように乱暴にタオルでがしがしと拭いてやった、それでも身じろぎしただけで起きない。 性急にパジャマを着せてやり、抱きかかえてこれまた急ぎ足でシュウイチの部屋まで廊下をどすどすと響かせて歩いた。 半ば放り出すようにしてその体をベッドに横たえて布団をかぶせる、なるべく直視しないように。 何かに追われているような気分のまま急いで部屋を出た。 抱きかかえた体は思った以上に軽かった。 成長期のガキなんてみんなきっとあんなもんだ。 見慣れなかったからつい見入ってしまっただけで。 あいつが大人の男になればこんな感情は消える。 見てはいけないものを見てしまった記憶を消したくて酒をがぶ飲みしたけれどこういう時なまじ酒に強い体質だったのが初めて恨めしく思えた。結局ウィスキーはボトル一本開けてしまった。 帳簿の整理も集中できなかったから途中で放棄した、自棄な気持ちになってベッドに倒れこんだがどうにも寝付けなくて困った。 それでも何時間かしたらどうにか眠気がやってきてくれてようやくこの奇妙な鬱積から開放された。 眠りに入る直前に思った。 半陰陽とはまさにあんな感じじゃないだろうか。 「ナチさん、おはようございます」 「おう」 いつもの一日が始まる。 ほら大丈夫だ、なんてことなかった。シュウイチの顔もちゃんと直視できる。 こいつを見るまでの杞憂がただの杞憂で終わってくれてやっと心から安堵できた。 一体なにを心配してたんだか。 「あの」 朝飯を食ってるときにシュウイチが口を開いた。 「なんだ?」 やけに心細そうな声だ。 「僕ゆうべ大丈夫でしたか?お酒飲んだ後の記憶が全然がなくて」 思わず吹き出した。 そうか記憶をなくしたか、まあそれも人生における貴重な経験の一つだ。 「今朝は大丈夫か?気分が悪いとか頭が痛いとかは?」 「ないです」 ならよかった、やっぱりお前酒飲みの才能があるぞ、お前が成人したら俺の秘蔵のお値打ち物のスコッチを飲ませてやる。 それでもう少し酒に強くなってたら一晩中飲み明かそう、身近に飲み仲間が出来るのは嬉しいことだ。 そうなるまでほんのあと何年かだ。 「完全に酔っ払ったんだな、ああ別にたいしたことはなかった、ただまあ、風呂場で寝こけてて」 そこまで言って急に昨夜のことを鮮明に思い出した。 自身がなまめかしいと頭の中で表現した肢体がはっきりと浮かんだ。 まだ男でも女でもない、やけに清くてきれいな身体。 昨夜、追われた正体不明の不安感がまた襲ってきた。 なんなんだ。 やめろ。 消えてくれ。 頼むから。 「ナチさん?」 突然口をつぐんだ俺を不思議そうな顔でシュウイチが覗き込む。 その純真な黒い瞳がなぜか深い深い底のない穴のように見えた。 そしてその穴に落ちていきそうな恐ろしさを感じた。 さっきまでなんでもなかったこいつが急に脅威の存在に思える。 俺は怖い? シュウイチが? 「…風呂で寝てた、だから部屋まで運んでやった」 感情を飲み込んで無機質にそれだけ言うとシュウイチから目を逸らした。 それをシュウイチがどう捉えたのか分からないが「ごめんなさい」と謝罪した。 「別に」 一言だけ返した。 早くこいつが大人になればいいのに。 レイラはまだあの店で働いている、美貌も健在だ、美人というのは年齢がないらしい。俺はなんだか急に彼女に会いたくなって仕事が終わるとすぐに店にやってきた。 そんなことは珍しかった。でもとにかく。 「珍しいこともあるものね」と彼女は笑った、見惚れるほど鮮やかな笑みだった、俺はなぜ彼女を避けていたんだろう。 本当にすぐにでもここに来たかったからシュウイチには「出かける、飯は一人で食え」とだけ言って出てきた。顔も見ずに。 レイラも酒には滅法強い、彼女と本気で根性試ししたらどっちが勝つだろうか。 久しぶりに思いっきり羽目を外したい気分だ。 酒場の女たちもそれなりに面子は入れ替わりはしたが馴染みの顔もまだ多くて本当にここは安心できる。 なんでかは知らないが俺はここら辺では結構な有名人らしく「ナチが来た」とレイラだけじゃなく色んな女が顔を見せに来る。 レイラは逐一嫉妬心を露にして追い払おうとしたが俺もその実悪い気分じゃなかった。 本当に珍しいほど飲んだ、さすがの俺でもちょっと自制心が危うくなるほどに。 やがて夜も更け、店内にはすっかり酔いつぶれた客やもくもくと自分の仕事をこなすバーテンや俺と同じ徹夜組らしい数人の客だけになった。あの隅の席を陣取ってるのはゲイのカップルだ、あいつらも帰らない。 店内のジュークボックスからは古典のロック、誰だ、こんな曲を選んだのは。 俺とレイラは胸糞悪い古いロックに合わせて声を張り上げて歌った、他の客の迷惑なんて知ったことか。 久しぶりに馬鹿笑いした気がする。 「枕は持ってこなかったけどお前の部屋に行ってもいいか?」 ひとしきり笑ったあと急に神妙な顔を作ってレイラに訊いた。 「驚いた、あたしを口説いてるの?」 「悪いか」 「嬉しいけど、なんか変よ、ナチ」 「俺は変じゃない」 そう言うとやや強引に彼女の顎を指で掴んで引き寄せてその唇を間近で見た、紅いルージュをひいた色っぽい形のいい唇、これだ、少しの迷いもなくその唇にキスをした、彼女もすぐ身をゆだねてきた。生身の女の甘い体臭を嗅いで肉体的な焦燥感が湧き上がるのを感じた。 上手く口説き落とせたらしい、彼女のはねる時間を待って彼女の部屋へご招待に与ることになった。 表には出さなかったが心の中ではガッツポーズだ。 彼女の車で彼女の部屋までの短いドライブ、カーステレオからはロッド・スチュワートの情感溢れるバラードが流れていた、彼女はこんな趣味だったのか。 レイラの部屋には初めて来た、なるほど女の部屋らしい、あらゆる小物や化粧品の類で溢れ返っていた、清潔感はあるが。 けどピンクの壁紙ってのはちょっとどぎつくないか? 「先にシャワーを浴びさせて」 可愛らしく笑って離れて行こうとする彼女の腕を取って半ば強引に引き寄せた。 「そんなのはいい」 今は一刻も早く成熟した女の体に触れたかった。 性急に彼女の唇を奪ってやった、舌を差し入れて柔らかい女の口内をむさぼる、少し驚いてたようだったけどやがて彼女からも舌を絡めてきた、そうして十分堪能すると今度は彼女の首筋の色っぽいほくろにキスを落とす、首のほくろってのはいいな、実にセクシーだ。 首筋を舌で嬲ると彼女の口から「あ」という短い喘ぎが漏れた。彼女の体がベッドに沈んでスプリングが軽く軋んだ音を立てた。 あいつちゃんと飯食ったかな? ほとんど引き毟るようにして彼女の上着をはだけさせて下着の上から彼女の豊かな乳房を手で愛撫する。 そういやちゃんと戸締りはしたのかな? レイラがのたうたせるように体を大きく捩った、女は多少強引な方が好きだ、再び深く口付けしながらもう片方の手で彼女の形のいい太腿をなぞる。 あいつを一人で留守番させるのは初めてかもしれない。 手が女のそこにたどり着くと、彼女は少し苦しげにも聞こえる声を漏らした。 心細くないだろうか。 今度こそ下着を毟って直接女の乳房に触れた、既に十分な固さを持っていたその先端をやや強めに摘み上げる。今度こそ彼女の口から甘い吐息が零れた。 いやもうとっくに寝てる時間だよな。 女の柔らかい胸に顔を埋めた、今度は手ではなく舌で胸を嬲る。 あと何年一緒にいられる? パンティとストッキングを脱がすのももどかしい、なんで女の下着ってのはこうやたら面倒なんだ。 あと何年一緒にいてくれる? 女の体を卑しいまでに愛撫する俺を見るレイラの顔が不審なものに変わったのに気付かなかった。 お前が大人になったらどんな風になるんだろうな。 「ナチ?」 甘い声ではなく怪訝な響きを持って名前を呼ばれた。 「やめて」 聞かない、好きにさせろ。 「やめて!」 うるさい、黙って喘いでろ。 「やめてったら!」 怒声と共に顔に鋭い痛みが走った。 彼女に引っ叩かれたのだと気が付いた。 その痛みで我に返る、目の前のレイラが瞳にいっぱいの涙を湛えて睨んでいた。 呆然とする俺の胸倉を掴んでレイラが怒鳴った、ほとんど叫びに近い声だった。 「あたしにだってプライドがあるわ!あたしを見てもいないくせに抱こうとするなんて許せると思う?一体誰のことを考えてたのよ!」 どうやら女の勘を甘く見てたらしい。 「帰って!」 俺の襟首を突き放すと大きく腕を振って俺を遠ざけた。 間抜けなことに俺はまだ少し呆然としてる。 何も出来ずに突っ立ってる俺を一層強い眼光で睨むと次の瞬間には顔をゆがめてベッドに突っ伏した。 「帰って、もう顔も見たくない…」 今度こそ本気で泣き出してしまった。 ショックでふらつく足で、それでも彼女に言われたとおりに出て行くしかなかった。 ああ、そうだ、正しくは彼女に会いたかったんじゃない、あいつから逃げたかったんだ。 彼女を口実にしてただけだった。 レイラをひどく傷つけてしまった。 なんかもう最低の気分だ。 女に思いっきり振られた夜はどこかで自棄酒をかっくらうしかない。 憎たらしいまでに朝日がまぶしい。 シュウイチと暮らし始めて初めての朝帰りだ。 記憶がおぼろげになるほど飲んでよれよれになって帰って来た。 シュウイチは戸締りをしていなかった、そういや俺がいない夜を過ごさせたのはこれが初めてだからあいつに戸締りとかを教えてなかった。教えておかないと、何かと物騒な世の中だ。でも当分は俺もおとなしくしてると思うけど。 それにしても俺もいい大人なのにこの2年一度も朝帰りしなかったのか、偉いような情けないような。 きっと今酷い顔をしてるだろうな、ただでさえ色男とは程遠いツラなのにな、でも顔くらいは洗わないと。 正直に言えば今あいつの顔を見るのはまだ怖い。 でもいつまでも逃げてるわけにもいかない。 ゆうべは行くところも帰るところもないような気持ちだった。心細いっていうのか、もしかしたらあいつもそんな思いをしてたかもな。 出来れば気付きたくない感情を無理矢理押し込めて覚悟を決めるために大きく深呼吸した。 シュウイチの何がこんなに怖いんだろう。 それすらも考えてはいけない気がした。 「お帰りなさい、ナチさん」 「ああ」 普段の朝の挨拶とさして違わなかった。 どこにいたのかとも聞かれない。 こいつは俺のやることに間違いはないと信じきってる。 実際にはゆうべ大ヘマをしてきたばかりだ。 まだ怖いかと聞かれれば、思ったほどでもなかったというのが正直な感想だ。 昨日は怖さのあまり逃げ出したってのにな。 シュウイチは極端なのだ、一見単純に見えてその実えらく複雑怪奇だ、だから理解しかねるがそこをあえて理解しようとしなければ悩まずに済む。 それは要するに物分りのいいフリをして考えることを放棄しているわけなのだがそれが今の時点では一番の得策に思えるのだから仕方がない。 このまま考えることをやめてしまえば平穏な日常が帰ってくる。 それならそれでいいだろう。 戦争にまで行ったことがあるのに俺はずいぶん弱い人間だ。 しばらくは平穏な日々が続いた。 俺は考えないことに決めたし。 シュウイチは変わらず俺を純粋にただ慕ってくる。 これでいい。 ただレイラにはどうやって許してもらったらいいかずいぶん悩んだが、そこは結局真っ向から勝負するしかないと思ってある日店に顔を出していきなり彼女の前で土下座した。事情を知らない連中は俺の奇行にただびっくりしていただけだったが、レイラはそんな俺の頭をハイヒールでひとしきり踏みにじってから一応は許してくれた。ただ多分この先一生彼女には頭が上がらないだろうが。 ある晩のことだった。 宵っ張りな俺でもさすがに寝ようとしていた時間に寝室のドアが控え目にノックされた。 誰かもクソもないこの家には俺ともう一人しかいない。 「シュウイチ?」 呼びかけるが返事がない、早寝早起きのシュウイチがこんな時間に起きてることもおかしかったが、どうして来た?どうして返事がない? ベッドから飛び起きてドアを開けた。 シュウイチが立っていた。 「お前、こんな時間にどうして」 「ごめんなさい、ナチさん、でも、なんだか頭が痛くて気持ちが悪い」 薄闇の中でもハッキリそうと分かる青ざめた顔でそれだけ言うと急にうずくまってその場で床に吐き戻した。 ヒヤリとした、まずい、病気だ。 すぐにシュウイチを抱き上げると洗面所に連れて行った。 そこでもう一度吐いたが先ほどほとんど胃の内容物を戻してしまったので少量の吐瀉物と胃液しか出なかった。 それでも洗面台の狭い排水溝が詰まってしまって流れなかった。 俺は手を突っ込んで排水溝の蓋を外して水で流した。 「…あの、汚いですよ?」 シュウイチがまだ青い顔で不思議そうに俺を見上げた。 「別に」 お前のゲロくらい汚くもなんともない。 シュウイチの部屋のベッドの横にポリ袋をかぶせたゴミ箱を用意した。 「また吐きそうになったらこの中に吐け」 ベッドの上にはさっきよりはマシになったがまだ若干蒼白な顔をしたシュウイチがいた。 「ありがとうナチさん、あとごめんなさい、ナチさんの部屋まで汚しちゃって」 「そんなことは気にするな、多少熱もあるな、明日医者に連れて行ってやるから今日はもう寝ろ、眠れそうか?」 俺の言葉にシュウイチは憔悴した顔に無理に笑顔を作った。 「うん、平気、ナチさんももう寝てください、僕ならもう平気だから」 「お前が眠れるまでここにいてやる」 シュウイチが意外そうに目を丸くした。 「あの、本当に平気です、だから」 「心細かったんだろうが」 シュウイチの言葉を遮って強い口調で言う。 「痛くて気持ち悪くて怖かったんだろうが、だから俺のところに来たんだろう、頼りたかったんだろう、なんで今更遠慮するんだ、俺を頼れ、なんの為に俺がいるんだ」 我ながらいつになく厳しい声音だった。 だってこいつは弱ってる、こんなシュウイチも初めて見た、でもこれは見ていて気持ちのいい一面じゃない。だから助けたい。 一瞬シュウイチの顔が泣きそうになったように見えた、でもそれもほんの一瞬だった、また笑顔を作ると手を差し伸べてきた、俺はその手を握り返した。 熱がある所為で若干俺のより熱いその手は2年前より大きくなった、それでもまだ指は細くて頼りない。大きくなれ、もっと。大人になったお前を俺は見たい。 さっき、いつかのように抱き上げたシュウイチの体はやっぱり軽かった。 ちゃんと食わせてるつもりなんだがなあ。 俺の人殺しの罪の意識とどっちが軽い? いつ俺は報いを受けるんだろう。 翌日、朝一番に病院に連れ込んだところ、どうやら典型的な今流行の感冒らしいとのことだった。吐き気が真っ先に来るそうな。どこでうつされたんだか。とりあえず俺はシュウイチを厳重な監視下の元に監禁して完全に治るまで一歩も出さなかった。 いつからか夢を見るようになった。 それも頻繁に。 あの硝煙と土と血の臭いのする戦場の夢。 それともう一つ。 仲間の若い男は地雷を踏んだ。 俺が埋設した地雷だった。 伝令がうまく伝わらなかったのか、動くな、と言ったにもかかわらず男は銃撃戦の真ん中に取り残された恐怖に一歩踏み出してしまった。 爆発音、爆風に煽られ俺の顔にも細かい肉片が飛び散った、続いて土煙で視界を失った、爆音で若干遠くなった耳になんとも不気味な肉の固まりが地面に叩きつけられる音がした。 男の下半身はなくなっていた。 その男は死に切っておらず、浅く早い呼吸と血反吐を吐きながら苦しみにのた打ち回っていた。 もうどう考えても助かるはずのない怪我だった、だから俺は小銃を抜いてその男の頭に突きつけた。 楽にしてやった方がいいと思ったから。 男が言った「殺してくれ」と。 声にはなっていなかったがそう言った。 だから俺は引き金を引いた。 なぜか今になってそのシーンを繰り返し見るようになった。 そしていつしか気が付いた。 彼は「殺してくれ」と言ったんじゃない。 「もっと生きたい」と言ったんだと。 他の選択肢はなかった、助けられなかった、長く苦しめるだけだ。 それでも生きていたいと望んだ命を奪ってしまった事実がそこにある。 もう一つの夢は。 ひどく抽象的で、はっきりとはいえない。 いつも曇り空の世界。 電柱に設置されたスピーカーから人の声ともノイズともつかない音が常に漏れている。 長い長い一本道を歩いている。 シュウイチがいる。 他の人間は一人も存在しない。 当たり前のように、シュウイチは俺の後ろをついて来ていた。 親鳥を慕う雛鳥のように。 それもいつしか変わっていった。 振向くたびシュウイチが遠ざかっていく。 その都度不安が大きくなっていった。 そしてついには逆に俺がシュウイチを追いかけていた。 でもどうしてもあと一歩のところで追いつけない、どうやっても逃げられてしまう。足がのろのろとしか動かない。 何で逃げるんだ。 俺を見てくれ。 俺の名前を呼んでくれ。 いくら呼んでもシュウイチは振り返ってさえくれない。 どんなに必死に、声を限りに叫んでも、なぜか追いつけない。 怖い。 やがて一人取り残される。 命の気配のない夜明けがやってくる。 時々、夢に耐えられなくなる。 昨日も最悪の夢見だった、その所為で一日中気分が悪かった。シュウイチにまで「ナチさん大丈夫?」と訊かれたほどだ。 眠りたいが眠って夢を見るのがいやだ。 けど明瞭な意識を保っていられるほどにも気分はよくなかった。 仕事に集中している間はまだマシだった。 でもこうして夜になるとどうしても気分が優れない、そんな日がこのところ長く続いていた。 俺はどうしたんだろう。 だからとにかく酒を飲んだ。 ボトルを何本開けたかさえ忘れるほどに。 そういや深酒すると余計眠りが浅くなるんだった、じゃあまた夢を見てしまうのか。馬鹿だな。 そうするうちにさすがの俺でもだんだん意識が朦朧としてきた、でも眠気は来ない。 生きたいと願った男を殺すのとシュウイチに置き去りにされる夢のどっちがマシかと聞かれたら。 まだしも半身を失った男を殺す夢の方がいい。 一人にされるのはいやだ、どうしようもなく淋しい。 どうすればシュウイチを捉まえられるのか。 どうすればシュウイチを俺だけのものに出来るのか。 頭の中に声が響いた。 そんなの簡単じゃないか。 何故か突然いつか見たシュウイチの裸の身体を思い出した。 魔が差すというのはこういうことかもしれない。 思い出してはいけない。 俺は大きく頭を振るとそれを頭らから追い払おうと躍起になった。 へその下に熱が集まるのを感じた。 いや、違う。 こういうときは普通女のことを考えるものだ、たとえば美人でセクシーな女の体のことを。レイラとか他のきれいな女たち。 あのシュウイチの痩身の身体をおもうさま撫で回してみたい。あわよくばあの細い腰を掴んで、足を。 違う! 違う違う! ほとんどきちがいのように本棚の本を蹴散らかし奥に隠してるいかがわしい雑誌をとりだしてページをめくった。 そこには様々な痴態を晒した女たちの熟れたボディが惜しげもなく写し出されていた。 これだよな、本来。 俺は胸の大きな女が好きだ。くびれた腰と大きな臀部が好きだ。そう、できればブロンドの長い髪であればもっといい。 なのに、そういう女もたくさん写っているのにちっとも興奮しない。 今求めているのはこれじゃない。 これじゃない? じゃあなんだ? 酒の所為だ、今の俺はまともじゃない。酒なんか飲むんじゃなかった。 多分理性の箍が外れてる。 醜い肉欲に支配されて雑誌を放り捨てて体がどこかに向かおうとしている。 え?あれ?俺は何をしようとしてるんだ? 気が付けばシュウイチの部屋の前に立っていた。 脳の中のまだ僅かに残った理性がしきりに警告をあげる、それだけはよせ。ドアを開けるな。引き返せ。 だがそれ以外の部分の脳は最もしてはいけないことをさせようとしている。まったくどうにもならないことにそっちの方が圧倒的多数だ。 そうか、とぼんやりと納得する、俺は今、15歳の子供に、しかも男の子に欲情している真性のド変態だったんだ、と。 手がドアノブにかかってドアを開けて部屋を開ける。 やめろ。 うるさい黙れ。 眠っているシュウイチの側に歩み寄る。 俺の気配に気が付いたのかあどけない睫が揺れてゆっくりその瞳が開かれる。 「ナチさん?」 半身を起こしかけた状態で警戒心の欠片もない声で俺を呼ぶ。どうかしたの?と。 その肩に手をかけてベッドに押し付ける。 まだ疑問符を浮かべたまま見上げていた。 その目に俺はどう映ったのだろうか。 あるいは彼が悲鳴を上げて逃げ出してくれることを願ったかもしれない。 でもこいつのことだから服を脱がされるまで何をされようとしてるのか分からないのかもしれない。 だからそうしてみた。 それでも無理矢理押さえつける必要さえなかった。 細い足を掴んで開かせてみてもやっぱりなんの苦労もいらなかった。 いくら相手が抵抗しなかったからってこれは完全に強姦だろう。 あるいは俺だから、俺には逆らってはいけないという強迫観念が彼に抵抗する気力を失わせてるとしたら、それなら全くの一方的な暴力でしかない。 ちゃんと分かってるのにどうして止められなかったんだ。 彼が自分で噛んだ手の傷がひどく痛々しい。 でも俺はもっとずっとひどいことをしている。 この変態め! 悪夢か何かとしか思えない行為が終わると、解放されたシュウイチは強張らせていた全身の力を全て抜いて手足を弛緩させて投げ出していた。 荒い呼吸と焦点を失いかけた瞳がふらふらと宙を彷徨っている。 ただ黙って耐えていた、本当に何一つ抵抗されなかった。 一時の激情が収まった途端、冷静さを取り戻した俺の方こそ叫びたくなるような恐怖に襲われた。 俺は何をしたんだ? なんだこれは? ベッドから転がり落ちるようにしてシュウイチから離れた。 早く、早く、ここから逃げなければ。 何を言ってる?逃げる?こんな状態のシュウイチを放ってか?信じられない、なんなんだ俺は。 でもあの目が俺に向く前に逃げなければ。 自分がしたことなのにどうしようもなく恐ろしかった。もう逃げることしか考えられなかった。だってあの目が俺を見たら? そこにどんな自分が映るんだろう。 本当にシュウイチを置き去りにしたままめちゃくちゃに混乱して無様に逃げ出してしまっていた。 あまりにも酷すぎる。 魔が差したでは済まされない。 とんでもない過ちを犯してしまった。 こんな恐怖はこれまでに味わったことがないほどだった。 生まれて初めて戦場に立った時の数百倍、数千倍怖い。 狂いそうだ。いや、もう狂ってるのかもな。でなければあんなことが出来るはずがない。大切にしてたのに。 酔いなどとっくに醒めていた、当然眠れるはずなどなかった。 耐え難い恐怖の中で俺はずっと考えていた。 もし他のやつがシュウイチにあんなことをしたんだったらそいつを生まれて来たことを後悔するほど酷いやり方でぶっ殺してやっただろう。少しの迷いもなく。でもやったのは俺だ。じゃあ俺が俺を生まれて来たことを後悔するほど酷いやり方でぶっ殺せばいいのか? ちょっとの間苦しんで、それで死んで楽になる?それだけでいいのか。俺が殺した人や、埋めた地雷で死んだ、あるいはこれから死んでいく人たちもそれで俺を許してくれるのか? 地獄とかって本当にあるのかな。 「ナチさん、おはようございます」 いつもどおりの声音でシュウイチが俺の背中に語りかけてくる。 振り返るのが、怖い。 だがもう逃げるわけにはいかない。そもそも逃げ場なんてない。 俺は俺の罪と正面から今度こそ向かい合う為に恐怖を堪えて振り向いた。 今までと何も変わらない瞳があった。 なんで平気な顔をしてるんだお前、軽蔑の眼差しで見られた方がまだ楽だったかもしれないのに。どうして俺を裁いてくれない。 「すまない」 許しを請うのもおこがましいがそう言わないわけにもいかなかった。予想してたよりしっかりした声だった。逆に笑えてきそうだ。 「なにが?」 その言葉には一切の含みも感じられない。そんなはずがないのに。 本当に分からないのか? 「…別に無理しなくてもいい、お前が俺を怒ってたとしても追い出したりはしないから」 いや、或いはここにいない方がいいのかもしれない、だって俺は俺がもう信じられない。 「ただお前がもうここにいたくないなら次に住む所は見つけてやる、それとお前を任せられるまともなやつも」 それは本心だった、本来なら俺が最後まで責任を持って育ててやるつもりだったがその資格はもうない。 「ナチさん、僕がじゃま?いない方がいい?」 なんだそれは、なんでそんな発想になる。 「どうしてだ?」 俺が発した声には怒気が含まれていた、それが出来るのは俺の立場じゃないだろうに。 「ナチさん怒ってる?ごめんなさい」 「なんでお前が謝る?」 「だって怒ってるから」 「違う!どうして謝らせてもくれないんだ!」 これじゃまるっきり立場が逆だ、おかしいと思いながらも感情を抑えることが出来ない。 「ごめんなさい」 シュウイチがまた謝った。決定的にお互いの価値観が違うんだ。こいつのこういうところを知ってたのに今更になってどうしようもなくもどかしく感じる。 「昨夜のことだ」 やっとそれだけ言うと俺はもうなんだか立っていられなくなってソファに座り込んでしまった。 「ああ」 シュウイチがやっとそのことに思い至ったかのように少しだけ目を丸くした。 「別にいいよ、あんなの、気にしてないから」 ああ、多分それは本当だ。だがこんなのはあんまりだ。そういえばこいつにとって俺は神にも等しいんだった、神を裁ける者などいない。 じゃあ俺は今までしてきたことや今もこれからもし続けている罪を償う機会さえ与えられないのか。こんな酷い話があるのか。 「それに、ナチさんがああいうの望むならこれからだって」 「望まない」 あまりにも平気そうにシュウイチが言うからまた俺は場違いな怒りが湧いてきた。握り締めたこぶしはもう血が通わないくらいになってる、爪が食い込んで痛む、それでもなお握り締めた。 「そう?僕はじゃまじゃない?だといいんだけど、僕はほら、世間知らずだから」 全くだ、世間知らずにも程がある。こいつを理解して、敬い、助けてくれるやつなんてこの世にいるんだろうか? もしこいつのこういうところを悪い意味で利用しようとするやつがいたら誰が救うんだ?俺か?そのシュウイチを悪い意味で利用したのは誰でもない俺じゃないか。でも俺以外の誰に出来るんだ?じゃあなんで俺は間違えたんだ? 「俺はお前に赦されたいんだ、いや、違う、憎まれたい、軽蔑されたい、どうして分からない!」 また怒鳴ってしまった、違うんだ。 「分からないんです、ごめんなさい、だって本当に怒ってないから、僕はナチさんの役に立てるならどんなことだってするから」 本能が理解した。 ああそうか、神は俺じゃない、こいつだ、でもこいつは限りなく残酷な神だった。 今度こそ俺は両手で顔を覆った、もうこの神の前に平伏すしかなかった。 「二度としない」 そうだ、何があってももう二度とあんなことはしない、それは誓う、でも赦されはしないんだ。 「うん、分かった」 無邪気という名の邪気があるのだと初めて知った。 今までのどんな場面の惨めな気分より一層重い気持ちでシュウイチをもう一度見た。その姿は本当に清らかで少しも汚れていない、なんてきれいなんだろう。俺の神は美しい。 でもその美しさを損ねてる部分があるとしたら。 「…手を出せ」 「え?」 「血が出ただろう、お前が噛んだ傷を、手当てしないと」 「ああ、こんなの平気」 「平気じゃない、言うことを聞け」 そう言えばシュウイチは素直に従う。 シュウイチの手にははっきりと俺が与えた責め苦に耐えた噛み傷が残っていた。 これが一生消えなければいいと思った。 そうすればこの傷跡を見る度に俺は苦しむから。 それがどんなに酷いエゴでも願わずにいられない。 こいつは俺の弟分じゃなかったっけ?じゃあ俺は人殺しの上に近親相姦の罪まで背負ったことになるのか。いよいよ地獄行き決定だな。 それに二度としないと誓ったしそれは本心だけどよく聴くじゃないか、そういいながら何度も過ちを繰り返してしまう、愚かな、自分の子供を犯す親のことを。 遠ざけるべきと思いながらもこいつを、完全にではないが一番近く理解できるのは俺だけだと、どこかでまだ過信してもいる。 決して愛欲じゃない、けどもう手放せない。 怖くて。 どこか遠くで、俺の知らないところで、この何も欲さない無欲な少年に何かあったらと思うと怖くて。 いつから俺はこんなに軟弱になったんだ?戦争で戦った時だってこれほどの恐怖は感じなかったってのに。 俺も愚かな親になるのだろうか。 地獄よりもっと酷いところはないんだろうかな。 俺が行くべきはそこなのに。 受けるべき報いがやってきた。こんな形で。想像以上に厳しい罰だった。 俺はこいつを側に置くことで自分を戒め続けるつもりだ。 どんな罪を犯したのか存分に思い知ることになるだろう。 俺は罪人だから裁かれるべきなのだ。 「ただいまナチさん」 「おう」 いつもどおり買い物から帰って来たシュウイチが買い物袋を工場の隅の机に置いた。 「ビールは買ってきたか?」 「もちろん」 そう言っていつもの銘柄のビール半ダースを胸の前で掲げて見せる。 それだけ確認してまたもとの作業に戻る、たかがパッキンの交換くらいでずいぶん手間を取らされた、大体にしてこのコンジットの配線が狭すぎるのが悪い。 「さっき街でレイラさんに合った」 いまだにその名前にはぎくりとさせられる。彼女は今でも美人だ、変わったことといえば今の彼女は一バーテンではなく自分の店を持ってることか。 「…なんか言ってたか」 「いつもどおりのこと、たまには顔出せって」 「そうか」 彼女に対する苦手意識はどうしても消えない、嫌いなわけではないのに。 「ねえナチさん、なんであんな美人をいつまでも待たせるの?もう10年は待ってくれてるのに」 「お前には関係ないことだ」 嘘だ、ないわけじゃない、俺はシュウイチとレイラの両方を騙し続けて平気でいるどうしようもない男だ。 それは変わってない。 「だから僕も言ってみたんですけどね、いっそ僕に乗り換えませんか?って」 ふうん、言うようになったじゃないか。 「そしたらガキはお断りだって、なんでみんな子供扱いするのかなあ、僕もう23なのに」 「俺達からみればお前は永遠にガキだ」 そうだ、こいつも大人になった、見たかった姿になってくれた。 今では身長は俺より高い、そもそも俺がそんなに背が高い方ではないからだが。 でも一つ残念なことがある、それはシュウイチが今でもきれいなままなことだ。 大人の男になったのにきれいなままだった。 もっと無骨くなってくれるんじゃないかと期待していたのだが。 確かに手や足も昔のように棒きれみたいじゃなくてちゃんとそれなりに筋肉もついたがそれは危ういアンバランスさが消えて返ってバランスがよくなったという印象だ。 顔も形のいい輪郭がハッキリと浮き出ていて見慣れたはずなのになお驚くような端整さだ。 その瞳も完璧なまでの比率の大きな二重の弧を描いてとても形がいい。 この青年は奇跡的なまでに美しかった。 それが残念でならない。 それでも、俺を見る目が変わらない、崇高な、絶対のものを見るような、神を敬う敬虔な信徒のような目。 「ずいぶん手間取ってますね、何かお手伝いできることありますか?」 そう言っていつものように隣に来て高くなった視線で俺の手元を覗き込む。 手が修理中のコンジットのふちにかかる。 その手に気付かれないようにそっと視線をやる。 もう傷跡はとっくの昔に消えてしまった。 この手はずいぶん大きく逞しくなったがやっぱり男のものにしては繊細で形もよく指も長く、掛け値なしに整っている。 でも傷跡はない。 そのことにいつも落胆を覚える。 そしていまだにこの手が機械油にまみれるのが惜しくてならない。 「ない、これくらいいつもやってることだ、それより腹がへった」 いまだに時々夢を見る。 あの日のようにシュウイチを犯す夢。 人にとっては意味が違っても俺にとっては悪夢でしかない。 あまつさえ夢の中で俺はその首に手をかけて締め上げている。 なんて酷い。 夢の中のシュウイチのビジュアルは成長する毎に現実と同じように変化していった。 それが夢から覚めた後の気分をより一層悪くさせる。 直接ではなくてもやっぱり俺は愚かな親になってしまった。 望んでなんかいない。 こんな夢は見たくない。 ああでもたった一度だけ目が覚めてすごくホッとしたことがある。 同じ夢だったけれど続きがあった。 シュウイチが憎悪を剥き出しにした表情で、もっともそんなものは現実では一度も見たことがなかったが、俺に向かって言ってくれた。 「信じてたのに」と。 あの時ほど救われた気分になったことはない。 でもただの夢だ。 そしてもう二度とは見ない。 「じゃあお昼ご飯作ってきますね、ナチさん何かリクエストある?」 「なんでもいい」 「そういうの一番困るんだけどなあ」 ぶつくさ言いながら工場を出ようとしたとき、あ、と小さく声を上げて足を止めて振り返った。 「今夜あたり雪が降りそうだから防寒対策しっかりしないとね」 明らかに浮かれたテノールが跳ねる。 「お前は変わらないな」 「レイラさんにもそういわれた、でもそれっていいことなのかな?」 分からない。この場合は。 お前がそのいつまでも変わらない無垢な瞳で俺をまっすぐに見て、たった一言。 「忘れてないよ」 そう言ってくれさえすれば俺の苦しみは和らぐのに。その言葉できっと俺は恐怖で死ねる。死んで楽になれる。 責めてくれた方がよっぽど俺は救われた。 でもこれが俺が受けるべき罰だから仕方がない。 俺は苦しみ続けなければならない。 人間になった天使は、今年ももうすぐ降るだろう雪を楽しみにしている。 |
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